〜雨だれ〜  金曜日の午后、七年ぶりにあのひとから電話があった・・・。 「諸星くん、電話よー」 「あっ、はい、今出ます」 諸星あたるはいつものように、彼の勤め先で午后五時には仕事を終え家路に就こうかとしていた。彼の机の上で電話のベルが鳴り響いたのは、狭い部屋に机を押し込めたような格好の、その小さな事務所を彼が出ようとした、まさにその時であった。やっと仕事から解放されたと思った途端の電話だったので、あたるは渋々といった表情で受話器を受け取った。しかし、彼の予想に反して、それは仕事の電話ではなかった。  「・・・あの、明日の午后、お時間あいてますか」 お互いによく知り合っているはずの、電話の主は遠慮がちにそう尋ねた。 「大丈夫だけれども」 「それでしたら・・・、会っていただけませんか」 その言い回しに、少しよそよそしいものを感じる・・・。  あいにく、午后から小雨が降り出した。拡張工事をしている最中の駅前の大通りから、飲食店などの建ち並ぶ路地にひとつ入ると、昔ながらの町の面影を残している。  いつも会っていた喫茶店・・・そう指定された店は、このあたりでは少し洒落た構えをしていた。彼女は窓際の奧のテーブルで、紺のトレーナーに暖色系の丈の長いスカートという、既婚の女性にしてはかなりカジュアルな出で立ちで、静かに外の景色を眺めていた。もしかしたら、大分待ったのかも知れない。あたるの姿を認めるまでは、左手の腕時計を時折気にしていた。 「ごめん、もしかして待ったかな・・・」 雨で肩のあたりが濡れたコートを脱ぎながら、久しぶりに会う友人にこう尋ねた。 「ううん、今来たところよ」 そう言ってにっこりと笑った口元から、彼女の白い歯がわずかに覗いた。あたるが彼女について気付いたことといえば、口紅の色が変わったことぐらいだった。彼女にこれといった変化がなかったことは、ある意味であたるを安堵させた。 「なかなか機会が無くて、しばらく来られなかったんだけれど、この辺も随分変わっちゃったわね」 年齢的なことを言えば、彼女ももう既に30を越えているはずだった。けれども彼女から漂ってくる雰囲気は、大人の女性のそれと言うよりもむしろ、まだ少女の面影を引きずっているという感じだった。事実、同年代の女性と比べて、彼女は驚くほど若々しかった。 「どうして、職場なんかに・・・」 「あっ、ごめんなさい、もしかして迷惑だったかしら・・・。ただ、なんだかラム・・・奥様に悪いような気がして・・・。変よね、私とあたるくんて、もう何でもないのに、こんな風にこそこそと・・・」 彼女は確かに出会ったばかりと変わらないほど若かったが、こういうどこかに哀しさを含んだような笑顔は―いつ覚えたのだろう―あたるに、今まで見せたことのないものだった。あたるがそんな彼女の表情を気にしていると、最近来ていないせいか、あまり見かけないウェイトレスが注文を訊きに二人のそばに来た。 「コーヒーでいいよね」 「えっ、ええ・・・」 あたるはとりあえずコーヒーをふたつ注文した。 「しのぶ、ちっとも変わらないよね」 彼女の名前はしのぶという。あたるとは幼なじみで、長い間恋人としてつき合っていたこともあった。しかし結局、あたるはラムという女性と結婚し、しのぶも今は結婚して地方に住んでいる。彼女の結婚披露宴以来、二人が顔を合わす機会は今日までなかった。 「あたるくんも全然変わらないわね」 「変わっていないように見えるだけだよ。今じゃラムにも素直に感謝している」 そう言って、ごく自然に笑顔を作って見せた。 「感謝・・・か。ただ、こうやって逢ってみると少しだけラムに嫉妬するわ」 しのぶが自分の指先を眺めながらため息をついた。 「えっ、ああ、うん、それは・・・」 あたるが次の言葉を思いつかずに困惑しているのを見て、しのぶはあわてて否定した。 「ううん、ご、誤解しないでね。私、もうあたるくんのことそんな風に見てないし、それに、それにね、今の旦那さん、とってもいい人なのよ。だから別に私、そういう意味で言ったんじゃ・・・」 「あ、うん、そうだよね。お互いに結婚して、それぞれに家庭があって・・・」 あたるは今日しのぶと会うことを、彼の妻であるラムに話さなくてよかったものかと少し後悔した。今、しのぶに対して本当に何の気持ちも持っていないのならば、おそらくラムに対して彼女に会うことを伝えておくべきであった。 「主人ね、休みの日にはいつも朝御飯とか作ってくれるのよ。ちゃんと卵焼きと、お味噌汁と、塩魚かなんかと、それから・・・」 しのぶは楽しそうに、それこそ少女のような目をして、自分の亭主が、終末にドライブに連れていってくれることや、犬の散歩をしてくれること、園芸が趣味であることなどを話した。 「幸せそうだね・・・」 「ええ、幸せなのよ、私。多分・・・」 そういって少しだけ頬を赤らめた。ちょうど、これからお茶の時間というせいか、あるいは雨が降っているせいもあるだろう、店内はほぼ満席であった。 「ご近所さんも、とっても親切にしてくれるし、不満に思うことなんて何もないわ」 「でも、随分遠くに行っちゃったね・・・」 「そうね、こっちとむこうじゃ文化も全然違うし、はじめのうちは慣れないこともあったけれど、私ってほら、結構そういうのに強いから・・・」  ウェイトレスが、あたるの注文したエスプレッソを運んできた。もちろんしのぶの分も一緒だったが、彼女はそれには口を付けず、自分の話を続けた。 「住んでみると、とってもいいところよ。何となく落ち着いてる感じがするし・・・」 あたるは、彼女の薬指に輝いている結婚指輪が、なんとなく自分をはじいているような錯覚にとらわれた。リングが彼女の白くて柔らかそうな指にフィットしているのは、結婚以来、彼女が痩せも太りもしなかったということを表している。そう思いつつ、自分の薬指に視線を落としたあたるは、少し窮屈になったそれに、小さくため息をついた。 「ただ・・・、向こうのお義父さんの具合がここのところ良くなくて」 彼女の表情が、ちょうど今日の空のように曇った。 「コーヒー冷めちゃうよ」 少し間が開いてしまったので、気を使ってあたるがコーヒーを勧める。 「えっ、ああ、そうね」 あたるはしのぶの作った表情に、つき合っていた当時の彼女の面影を探して、懐かしむような表情を作って笑った。ただ先刻、喫茶店の入り口から、久しぶりに彼女の姿を見つけたときは、ちっとも変わっていないという印象を受けたが、こうして会話を交わしていると、あたるの記憶の中にいる“三宅しのぶ”とは、少しずつ違う部分を感じる。もちろん、月日の経過に関係なく、彼女が魅力的な女性であることには違いない。ただ、あたるの気付かない、しのぶの内面のどこかは、大人になってしまったのかも知れない。 「子供は」 「いえ、まだいないの・・・」 少しうつむいて、小さく首を振った。今日何度か見せた悲しげな表情・・・。 「ご、ごめん。何かよけいなこと訊いちゃったみたいで・・・」 あたるがあわてたように、謝った。 「いえ、そんなことないわ・・・。あたるくんの子供は」 「う、うん、女の子でね。もう小学生になるんだけれども・・・可愛くってねぇ」 子供のことを考えているときの親の顔というのは何ともだらしがないものだ。しのぶはあたるの、そのだらしのない表情をしばらく、じっと眺めていた。そんなしのぶの視線に気付いてか、あたるは恥ずかしそうに頭を掻いた。 「親ばかだな・・・」 「あたるくんに似てるの」 思いがけない質問に、あたるは一瞬考えた。 「うーん、そうだなぁ。どちらかというとラムに似てるかな。女の子だし」 しのぶは、あたるの話を聞きながら、窓の外に目をやった。ここ何年かで駅前の様子は随分変わった。道も広くなって、人の往来も多くなった。昔はこの喫茶店の窓からも、古い駅舎を見て取ることが出来たが、今は最近出来た駅ビルの陰になってまったく見えない。ただ、駅から線路に沿って、南へ、ずっと下り坂が続いているのは、しのぶがこの町から離れてからもずっと変わっていなかった。 「子供かぁ・・・。主人は、私のこと多分大事にしてくれているんだと思う。ただ、確かなものがないから・・・」 しのぶは再び視線を窓の外に広がる雨の町から、彼女の目の前に座っている、かつてのボーイフレンドに向けた。自分ではなくラムを選んだ、昔、好きだったひと・・・。 「私、怖いのよ・・・。主人もあたるくんみたいに、いつか私の前からいなくなってしまうんじゃないかって」 あたるは、手元の冷めかけたコーヒーに、口を付けた。香りが口に広がる。しのぶも、初めてコーヒーを飲んだ。雨足が強くなった。降りしきる雨が窓の硝子に当たって小気味よい音を立てている。 「最近、年を取ったって感じるわ・・・。若い頃はこんな気持ちになったことなんてなかったもの」 あたる達の隣に、大学生ぐらいのグループが座り、にぎやかに話し始めた。 「あたるくん、私ね、久しぶりにこの町に帰って来たら、なんでだろう、まず最初にあなたに会いたいって、そう思ったの。どうしてだろう、もう終わったことなのに・・・」 あたるは空になったコーヒーカップの底に目をやり、複雑な表情を浮かべた。それきり、お互いにしばらく何も言わなかった。雨雲が、より一層厚みを増しているような気がする。窓の外に目をやれば、急に強くなった雨足にあわててタクシーを拾う人の姿が目に留まる。隣の大学生達の大きな笑い声が耳元で聞こえた。雨の中、急ブレーキをかけた車がスリップする音が遠くで聞こえた。五分、十分・・・いやもっと長い沈黙のように感じられた。静寂を破るように、しのぶがぽつりとつぶやいた。 「馬鹿ね、私ったら、何言っているのかしら、今さら・・・。でもきっと、あたるくんのことは忘れられない。忘れられるほど子供の恋じゃなかったわ・・・」 しのぶの大きなその瞳には、以前は確かにあたるしか映らなかった。しかし、今、下を向いていた顔を上げてあたるの姿を見ようとしても、彼の輪郭は涙で滲み、そしてこぼれ落ちてしまいそうだ。 「しのぶ・・・」 「だめね、年を取ると。涙もろくなっちゃって」 そう言ってハンカチで涙を拭う。あたるは、こんな風な形でしのぶと逢わねばならないことを理不尽に思った。高校時代、二人がつき合っていた当時、まさかこんな日が来るとは思いもしなかった。少し道路の方に張り出した屋根の先から、雨の雫がしたたり落ちる・・・ほんの一瞬のことが今はずいぶんと長く感じられる。ふと、人生なんてこの雨だれみたいなものだと思う。わずかな時間の間に、形を変え、輝きを変え、ただ地面に向かい落ちて行くことだけは確かだ。そしていつか地面に達し、他の雨水と共に流れ、その存在さえ確認できなくなってしまう・・・。  ふたりの間に七年という歳月が流れ―それは雨だれが落ちる時間に比べてあまりにも長い―何もかもが、あたる自身も意識しないうちに変わっていってしまった。いや、人間はもしかすると雨粒なんかよりもっと不確かで流されやすいものなのかもしれない。  「ごめんなさい。つき合わせちゃって」 「ううん、そんなことないよ」 雨の日の夕べ、駅のプラットホームで汽車を待つ。 「ねぇ、ひとつだけ訊いてもいいかしら」 そう言って、しのぶはあたるの方に急に顔を寄せた。昔と変わらない髪の匂いが漂ってくる。こうされると今でも、鼓動が早くなる。 「今でも・・・私のこと好き」 しのぶの両方の瞳からあふれ出した涙が、駅のライトに煌めく。あたるは、先ほど自分が考えたことに対し、疑問を感じずにはいられなかった。本当に何もかもが変わってしまったのだろうか。もしそうなら今、しのぶに対して抱いているこの思いは何なのだろうか・・・。汽車がホームに滑り込んでくる。その音に掻き消されないように、あたるはゆっくりと、そしてはっきりと答えた。 「好きだよ・・・ただ・・・」 「ただ・・・何」 「世界で二番目に、だけどね・・・」 軽くお互いの唇を重ねる・・・。あたるは、しのぶのぬくもりに、かすかな安らぎを感じた。少なくともこうして抱き合っている間は何も変わらないような気がしたから。  列車が到着すると、吐き出されるように人の波が改札口へと向かう。 「相変わらず優しいのね。ラムが羨ましいわ」 しのぶはそう言ってまた、愛らしい笑顔―年齢には関係なく、はっきりとそう言える―をあたるに向けた。 「やっぱり・・・」 「えっ」 「やっぱり笑うと昔のまんまだね。高校生に間違われない」 一瞬間を置いて、しのぶが吹き出した。 「ぷっ、ふふふふふ・・・馬鹿ねぇ」 あたるもしのぶに微笑んだ。 発車を告げるベルが鳴り響いた。 「それじゃ」 「お元気で」 お互いに軽く右手をあげた。列車は再びゆっくりと動き始め、どしゃ降りの町へと向かっていった。  「これできっと、あなたを忘れられる・・・」 しのぶは汽車からホームにたたずむあたるの姿を見つめながら、こうつぶやいた。けじめをつけたかった。もうあたるとしのぶの間には、昔のような“何か”はないから・・・。唇に残るあたるの体温を感じながら少し小降りになった雨の町に目を向けた。 「これで・・・よかった」  あたるは汽車が彼の視界から完全に消えるのを確認した後、ゆっくりと改札口へと向かった。後ろを振り返ったりはしなかったが、それでもその短い距離を、かなりの時間をかけて歩いた。改札を抜ける。相変わらず雨のカーテンが視界をおおっている。思い立って、錆びついた屋根に目をやる。傾いた屋根を伝った雨水は、すっと一筋の輝きを見せて、あたるの足下へと落ちた。あとにはただ、先ほどと変わらない水たまりが、波もたてずそこにあるだけだった。                                           おしまい