高校野球編:夢の場所・元の場所(中編) PART1「【目が覚めたら・・・】」 「コースケェ!!」 あたるの叫び声が球場に響き渡った。観客の誰もがあたるの叫び声に反応し、あたるに目を向けた瞬間、うつぶせに倒れている強打者キャッチャーの姿を目にする。 「おい、どうした!?目を開けろ!」 あたるは駆け寄ると直ぐに、片膝をついて、コースケの両肩を持って、上半身を少し起こした。 「おいこら!目ェ覚ましやがれ!」 「立て!何をしとるか!」 言葉は汚いが、声が震えていたのは竜之介だ。続いてメガネもコースケに声の裏返った罵声を浴びせる。 「おい、おい!」 コースケの肩を揺らすあたるの前に1人の男が立った。あたるはその男を見上げると、親父だった。彼も慌てて走ってきたのか、息が切れている。 そっと、コースケの首筋に触り、次いで、閉じた目を人差し指と親指でこじ開けた。 「死んでへん」 「当たり前だ!」 あたるは思わず敬語を使うのを忘れて怒鳴り返した。 「なんや、知らんけど、脱水症状か、日射病やないかの?ベンチで水飲んどんの見てへんで。それにくわえて腫れるまで我慢しとったんやから、それで気絶したんやろ?」 親父はコースケのズボンの裾を膝までまくり上げて、そこに赤く腫れ上がった膝を確認した。 「ただ、膝の怪我の仕方では、甲子園に間に合わへんかもしれん・・・」 「・・・」 あたるは息をのんだ。コースケが抜けると言うことは、面堂の「豪太刀」や彰の「一刻商」と比べると、チームの得点率がガクンと下がるのだ。 友引高校の攻撃は殆どの得点が、クリーンアップのあたる、コースケ、レイの長打によるモノだ。あとは、何とか出塁した四人組を竜之介、因幡が返すというのが時々ある。 そして、一試合に見れるかどうかという六番からの四人組の偶然の連打、時々、まぐれ当たりのホームランによる得点が、もしかしたら誰かの記憶にあるかもしれない。 とにかく、コースケはあたるに次いで守備の要、攻撃の最大の中心打者なのだ。 それが抜けると言うことは、四番抜きにくわえ、ナインの士気の低下、コースケにしか受けられないあたるの全力投球の制限、その他諸々の問題が発生し、なによりも あたるが野球の置いて最大の信頼を置く人物がいなくなるのだ。 「く、くそ・・・」 コースケがタンカーに運ばれて、それに平行して歩くあたるが心の中で留めようとして、抑えきれないわずかな部分が悲痛の声として外に出た。。右拳が握られると大きく、速く振動した。 「バカ野郎・・・。くそは俺が言いてえよ」 コースケの声にあたるは咄嗟に右拳を解いて、コースケの肩を両手で揺らした。 「生きてるか!おい!」 死ぬはずがないのだが、あたるはそう言わざる終えない程、追いつめられていた。 「か、勝手に殺すな・・・」 コースケは仰向けから少し体を傾かせて、まだよく見えない視界の中にあたるを見つけて、懸命に声を出した。しかし、その声はどんなに一生懸命でも大声になることはなかった。 「い、いいか、あたる・・・。せっかくのサヨナラ打者のチャンスを・・・与えて・・・やったんだ・・・。有り難く頂戴しろ・・・」 けいれんを起こしながら、コースケは懸命にあたるの腕を力一杯掴んだ。しかし、掴まれたあたるの腕は握力の痛みを感じなかった。今にでも腕を掴みきれなくなって落ちそうな コースケの手をあたるは掴まれてない手で握った。 「もう、なんも喋んなや」 親父がコースケにあたるとの会話を止めようとしたが、それでも、コースケは会話を続ける。 「あたる・・・。絶対彰とは勝負・・・、しようと思うな・・・。例え、耐え難くても耐えろ・・・」 「わかった・・・。わかった!」 あたるは一度、静かに答えたが、もう一度大きく力強く答えた。 「よし・・・。嘘ついたらバッドで、頭かち割るぞ・・・」 コースケはそういうとあたるは大きくうなずいた。それを見たコースケは大きく息を吐いて、またしても口を開いた。 「それからさ・・・、もう一つお願いが・・・」 「なんだ?」 「目が覚めたらさ・・・」 しかし、その続きがコースケの口から出てくることはなかった。再び気絶したのだ。顔中汗だらけで、いかにも死のそうなキャッチャーからの言葉をあたるは考えた。 「大丈夫。命に別状はないよ」 タンカーを運ぶ球場の係り委員が、あたる達が死んだと勘違いする前にそう言った。そして、友高のキャッチャーが球場を去るのを最後まで見ていた。 コースケの運ぶタンカーが球場内から消え去ると、空を見上げて、大きな入道雲を見つけた。いかにも、夏らしい雲だった。あたるははっとした。コースケがなにを言おうとしたのか、 直ぐさまひらめいた。 (なんだ・・・。何を今更言ってんだ) 「大丈夫かな、コースケさん・・・」 あたると並んで、コースケを見送ったラムがそう呟いた。ラムもまたあたると同じ気分だっただろうし、そして、コースケと同じくサヨナラをあたるに託していた。 「大丈夫だ・・・、あいつは・・・」 そう呟くとラムが視線をあたるの顔に向ける前に、あたるは身を翻して、どのナインより速くマウンドに歩いていった。ラムはその背中を見て、背番号1が、妙に目立つような気がした。 あたるが燃えている事に気付いた。 「三人分も背負いきれるかよ・・・」 マウンドの上で文句を誰かに言った。その言葉は何を意味するのか、本人と神のみぞ知るところだった。しかし、心の中ではそれは苦とさえ思っていなかった。 (コースケ・・・。心配しなくてもお前との約束は守ってやるよ) あたるはチラッと彰を見た。腰に腕を引っかけて、タンカーの方をジッと見ている。 あたるはロジンを手の平でポンポンッとはねさせた。 PART2「【嬉しくないよ】」 コースケが居なくなったことで、ポジションが少し変わった。キャッチャーに二年生が入った。キャッチャーとしてはコースケ以外の三年生の何人かよりは上手い。 体重、身長は他のナインより、かなり大きい。 バッティングでは芯にあたったときの飛距離は友高で抜群ではあるが、三振も異常に多い。また、ヒットになった場合、バットを思いっきり放り投げる癖があるのだ。 そのバットの餌食になる者が後を絶たない。それ故にあたる達は彼のことを「バッド・バット(BUT・BAT)」と呼んでいる。 因みに彼の名前は「神岡 雄大」である。 「あたる先輩、気を使わずにドンドン投げてください」 神岡は強めの声でいった。その大きな体が発せられる声は脅迫めいた声にしか聞こえなかったが、一応神岡がやる気と緊張を混ぜて言ったことだとあたるは理解出来た。 あたるは少し口元に笑みを浮かばせると、帽子の鍔を上げて、自分より背の高い神岡を見上げた。 「お前ももっと、バッティング練習しろよ。多分、お前は来年はレギュラーだ。その時、四番もつとめないと、この大きなからだが泣くぞ」 あたるはグラブのでいう手の甲で神岡の引き締まった分厚い筋肉の固まりの中心、腹をポンポンと軽く叩いた。 「は、はい・・・。努力します」 普段は低く迫力のある声に、遠慮がちな敬語が混ざると些か面白かった。神岡はグラブで軽く叩かれた場所を右手で優しく撫でた。 「それから、バット放り投げる癖やめろ!あれじゃ、一発退場だ。バッド・バットって呼ばれたくなかったら、グッド・バットと言われるようにしろ!」 今度は右手の人差し指で、胸より上、首よりしたの部分を突っついた。 「先輩・・・、グッド・バットってダサくないですか?バッド・バットって先輩が名付けたときも、他の人しらけてましたよ。もう慣れた見たいですけど・・・」 神岡の奇襲にあたるはかなり気まずい目をして、カクカクと神岡から視線をずらしていった。 笑ったり、咳払いをして、話を誤魔化すと、神岡の腕越しに、バッターボックスを見た。それにあわせて、巨漢のキャッチャーも体を横にして同じ場所に視線を移した。 「全力投球でいいか?」 あたるはアゴを少し引いて、バッターボックスを見たまま低く言った。 「え、ええ・・・。良いですよ」 「自慢じゃないが、俺のストレートは155q越えてるからな」 とたん、神岡の顔が引きつった。目がやる気と緊張から一気に緊張だけになってしまった。やる気のバロメーターがぐーんと下がっていく。 速いことは知っていたが、其処までとは思わなかったのである。 とてもじゃないが、友引高校の中で喧嘩がめっぽう強い神岡もコレには恐怖を感じるべきであろう。 感じなかったら、あたるは間違いなくサドヤマを人間として見なくなるようになったかもしれない。 神岡はマウンドをおりて戻っていった。そのついでに、は〜っと溜息をついた。 「お前はコースケの怪我が治らなかったら甲子園じゃあ、お前が先発捕手だ。どうせなら治ってもコースケには甲子園の土を踏ませない気でいけよ」 完全に臆している神岡の背中に言った言葉は、咄嗟に考えた励ましの言葉だった。神岡は、背後ののマウンドに居るあたるを見たが、あたるの目線は下を向いていた。 あたるは彰を見た。一刻商ベンチからこちらをじーっと見つめていた。あたるは勝負がしたかった。どうしてもこの男を倒して甲子園に行きたい。しかし、そうするには何人ものバッターを 歩かせて、なおかつ、ツーアウトで彰が来るようにしなければならない。一刻商の強力打線は、いくらあたるでも思い通りにはならないことは十分承知していた。 さらにコースケとの約束もある。絶対彰と勝負しようと思っては行けない。 「やっぱ・・・、勝負してぇな・・・」 あたるはまたもやぼやいた。 あたるは振りかぶった。そして、もうおなじみの白い弾丸は神岡の構えるミットに突っ込んで行き、これまたおなじみの爆発音がミットから鳴り響いた。 ドォーン! やはり何球投げてもいい音だった。神岡には今まで受けたことのない衝撃だった。体が少し後へよろめき、右足を後へずらして体勢を取る。 (うわっ、痛ぇ〜!) 心の中で、どうしようもない痛みを訴えた。こんな球、何球も受けていたら身が持たないと思ったのか、打たせて取る配球に変えた。 そんな個人的な都合で配球を変える神岡はやはり少し不良じみた自己中心的な性格だった。 しかし、それにはまず相手に当てて貰わなければならない。あたるの直球を当てるのはまず無理だから、直球よりある程度スピードの遅い変化球責めで行くようにしたが、思わぬ 事態が起きた。 燃えているあたるの変化球は痛くはないが思ったより速く、さらにめちゃくちゃなコントロールなのだ。 「フォアボール!」 「フォアボール!」 敵スタンドから歓声が上がっていた。それと同時にベンチも追い上げモード全開だったのが急に下がっていった。 やっと、ストライクゾーンにはいった。しかし、神岡は最悪の事態を目にした。ボールが急に見えなくなったかと思うと、 キィーン! と音がした。まさかと思った。 直ぐさまキャッチャーマスクを取るとボールは斜め上、センター方向へ飛んでいこうとしていた。それを見上げるあたるの姿が目に入った。 その瞬間、あたるはグラブを左手から抜くと右手に持ち変えて、たたきつけようとしていた。 「クソォ!」 叫び声を上げたのは、神岡だった。レイが体のバネを全開に使って、出来る限りのジャンプをしたが、無情にもボールはグラブのわずか先をかすっただけで、 わずかにスピードを落としただけで、センターに飛んでいった。 『追加点かァ!!?不用意に甘いコースへ入り、すかさずセンター前に運びました!!』 実況が叫んだ。ボールはセカンドの頭の上を通り過ぎ、センター前にポツンと落ちた。一刻商二塁ランナーはグラウンドの土を蹴っている。 誰もが追加点だと思い、もう勝てないと確信した悲鳴を上げたり、流れを引き戻したと喜ぶ者が大多数だった。 セカンドのレイも自分の頭上を通っていったボールをぎりぎり取れなかったことに悔やむ様に歯を食いしばっていた。あたるもセンターを転がる球を見て、何か遠い 手に入れ損なった大事な宝物のように見ていた。それを見納めるようにセンターに背中を向けて、神岡の方へ歩いていった。 もしかしたら、自分の配球ミスを責めているのかもしれない。それを慰めるためだ。しかし、自分もショックを受けているのに慰めようがあるのか心配だった。 しかし、神岡がこっちに向かってミットを構えている。いや、センターに向かって構えているのだ。 すると、歯を食いしばるレイの横に何か風が吹いた。 そして、あたるはセンターに向かって構えている神岡につられて、肩越しに振り向いた瞬間。何かが、自らの髪の毛をかすった。 「アウト!!スリーアウトチェンジ!!」 審判の叫び声に再び、ホームへ振り返る。なんと、神内と一刻商のホームへ走り込んできたセカンドランナーがクロスして、その後で審判がアウトのポーズをしていた。 「なんだ!?」 あたるは少し前のめりになって、まず喜びより、驚きの叫びを上げた。 テレビでは今のリプレイが流れていた。 テレビの画面の中で、ボールがテンテンと転がっていく方向に疾風のような足の速さで走ってくる者が居た。 「させるかァァ!!」 竜之介だ。弱々しく転がるボールを走りながらグラブの中に納めると直ぐさま右手に持ち、その強肩から繰り広げられる超高校級の送球を披露した。 その球はレイとあたるの横を通り抜け、わずか1バウンドで神岡のミットに納められ、アウトにさせてしまったのだ。 『センター藤波、何という強肩だァ!!』 実況の叫びが上がる前に、球場では友高応援団のコレまでにない大歓声が上がっていた。 「へ・・・。ヘッヘッヘッへ・・・」 竜之介は投げた勢いでその場で転んだらしく、多少の擦り傷がついていた。それでも、何か得意げに笑うのは九死に一生の出来事だったからであろう。 『さあ、九回の裏!一点差を埋めることは出来るのか!はたまたサヨナラか!あるいはこのままゲームセットか!兎にも角にも、この九回の裏がこの試合最大の見せ場でしょう!』 竜之介は親父や、ナインの補欠メンバーの祝福を受けていた。皆に囲まれ、頭をぽんぽんっと叩かれたりして、多少痛い目にもあったが、それ以上の喜びがあった。 その祝福の輪の中にあたるは入らなかった。その光景をジッと見ていた。その目はとげとげしさのない目だった。 「九回裏、一点差・・・。友引高校の攻撃は一番、竜之介から・・・」 あたるは口で今の自分たちの状況を確認すると、その横にラムが歩み寄り、並んでその輪を見ていた。 「試合が終わった瞬間、マウンドに集って喜ぶナインの輪の中心に・・・、ダーリンがいて欲しいっちゃ」 あたるは一瞬だけラムの顔をチラッと見たが、直ぐに輪に視線を移した。 「無理だよ。ここまで来たら、俺が投げて終わることはないから・・・」 「違うっちゃ・・・」 「何が?」 ラムは上半身を前に傾けて、顔だけをあたるの方向に向けて笑顔を見せた。瞬間、あたるはドキッとして顔を少し赤らめた。 「サヨナラのヒットを打つのは本来コースケさんの仕事・・・。だけど、今はいないなら、それはダーリンの仕事になるっちゃ!この回だけは、ピッチャー諸星じゃなく、  バッター諸星・・・。サヨナラのバッターだっちゃよ」 ラムはもう一度、さっきより幸福そうな笑顔をあたるに見せた。あたるはその笑顔をジッと見つめた後、帽子の鍔を思い切り下げて、顔が赤くなったのを隠そうとした。 それでも、ラムに丸見えなのは仕方がない。 「九回裏、一点差・・・。友引高校の攻撃は一番竜之介から・・・」 あたるはもう一度自分たちの状況を口で確認した。 友引ナインはベンチ前で親父を中心とする輪を作った。 「わいらはコースケ抜きで甲子園行きの切符を手に入れなあかん・・・。九回裏までどうにか一点差に食いついたのは何でや?」 円陣の中心の親父はいつもの大声ではなく、静かな落ち着いた声で話していた。それをナインも違和感を感じることなく、聞き入っていた。 「九回の裏があるからや・・・。ええか、九回の裏は他の回とは違うんや。奇跡の起きる回や・・・。その奇跡の場面にわいらの攻撃があるんをフルに活用せい・・・。ええな?」 ナインは、特にレギュラーメンバーは大きくうなずいた。 「よし、円陣を組め」 親父が命令をすると、ナインは互いに肩を組み合い、上半身を前に傾けた。上から見ると、中心に向かって頭を突き出す感じだ。 「いくぞォ、甲子園!!」 「オォー!!!!」 あたるのかけ声にナインが、これ以上に無い声で叫んだ。その声は守備につく一刻商、球場内、中継するテレビにもその声は響き渡った。 無論、面堂を始め、温泉やルパ、彰の耳にも聞こえてきた。 円陣が崩れると、一番の竜之介は、バットを手に持った。そのバッドを両手に持つと、ジーッと見つめ、このバットにボールがあたるように念じた。 自分が塁に出なければ、サヨナラのチャンスは無くなる。後続を手助けする意味でも塁に出なければならない。グリップを絞めるように握って、ギュッと音を立てた。   外野スタンド 面堂はルパが隣に座っていないことにようやく気付いた。周りを見渡すと、不自由な足を強調する車いすを運転しながら、球場を去っていくのが見えた。 「黒川さん!」 急いで駆けつけた面堂は、ルパに追いついて直ぐに呼び止めた。 「最後まで見ていかないんですか?九回の裏なのに・・・」 「バカ、彰はおれの従弟でもあるんだぞ。どっちが勝っても嬉しくないよ」 肩越しにルパはそう答えた。少し残念そうな目だった。本当は心の中で試合を最後まで見たかった。でも、見終わった後に後悔しそうなのだ。結局どちらが勝っても 半分しか喜べない。こんなに緊迫した試合なのに面白くないと思ったのは一度もなかった。 「面堂、お前は、最後まで見ていけ・・・。この試合を制したチームは、8月に、甲子園でお前ら豪太刀とあたることになるだろうから・・・」 ルパは呟くように言うと、少しジーッ面堂を見た後、そのまま車いすに乗ってを日差しの強い外に消えていった。 「黒川さん・・・」 面堂はルパの姿が見えなくなるまで球場の外を見ていた。 PART3「【俺たちを見てろよ】」 竜之介がバッターボックスの横に立った。そこで、緊張をほぐすように胸に手を当てて大きく深呼吸をした。そして、ベンチをみて、 ジッとこちらを見ている友引ナインの顔を一通り見た。ネクストバッターサークルの因幡もバットを地面にたててこちらを見ている。 竜之介は最後に親父の姿を見た。親父は小さくうなずき、竜之介も小さくうなずいた。 そして、バッターボックスに立って、バットを大きく回した。そして、ピッチャーではなく、スコアボードを見た。 (2−3・・・。まだチャンスはある!) バットギュッと構えて、ピッチャー彰を見た。彰も竜之介をにらんで、闘志むき出しの姿を眺めると、振りかぶった。 ゆっくりと左足を上げて、ボールを投げた。ボールはバッターボックスとマウンドの間を静かに駆け抜けた。 ドォーン!! キャッチャーミットに入った。外角の低めだ。竜之介はバットを出しかけて、しかしボールと判断し、引っ込めた。 「ストライーク!!」 微妙なその判定に竜之介は驚いた表情のあと、舌打ちをした。今のはストライクと言われても仕方ないコースだった。 彰はフッと笑って、キャッチャーの返球をグラブに納めた。 「彰め、ストレート勝負に徹する気か?」 ベンチのあたるは独り言のような、誰かに話しかけるような言い方で、口を開いた。 「そうなんですか?」 あたるの台詞を聞いた因幡が答えた。 「そうだろ?俺だって、九回裏で相手が気合い十分で臨んできたらそうするさ。ま、中には打たれるわけには行かないって、変化球重視で来る奴もいるけど・・・」 「ふーん・・・」 (ただ・・・、あいつが直球勝負に来たところで、何人が打てるか・・・。このまま三者凡退だったら、甲子園はないぞ、竜之介!) それは自分に対する戒めでもあった。 あたるは彰の目を見た。彰のその目には、殺戮を欲しいままにする鬼でもなく、復讐に燃えた殺人者の目でもなく、 戦いの本能に目覚めた武士を思わせ物だった。その燃える目の持ち主は振りかぶっていた。それと同時に竜之介の体の動きがまったく無くなっている。 彰は左膝を上げると、再び白球が空間を引き裂いていった。 静寂を守っていた竜之介のバットがヒュッと音を立てて、その白い白球へ向かっていった。バットの先は円の弧を瞬間的に描いて、バットの勢いが頂点に達したとき、 ボールとバットが激しくぶつかった。キッ!と音が鳴った。 (よし!) 竜之介はその瞬間、どうしても勝たなければならない相手に完勝した気分だった。しかし、それもほんの一瞬だった。鈍い金属音がバットから鳴り響くと、ボール前に飛ぶことなく真後ろに飛んでいき、 一刻商キャッチャーの頭上と審判の顔の左横を勢いをゆるめることなく、瞬間的に通過していった。 手がじーんとなって手がしびれていた。竜之介はしびれた右手の手の平を見て、思ったよりボールに重みがあること、そして自分の選球眼が少しついて行けていないことを実感した。 (ツーナッシング・・・) 竜之介は少し冷や汗をかいて、バットを軽く回転させた。足下の土を整理して、自分の打ちやすいように足を固定する。 それは明らかに焦りを相手に悟られないようにしようとする動作そのものだった。 最後の一球である。コレを空振りしたら、三振。フライでもゴロでも行けない。先頭打者としてフォアボールでもデッドボールでも振り逃げでも良い。 一塁に行って、攻撃の最後のチャンスへ繋げなければならないのだ。そうしなければ甲子園は金輪際、友引高校には行くことは出来ないだろう。 現代の友引野球部は至上最強であり、甲子園でも歴代トップクラスに属する強さを見せつけるだろう。 それを意識した竜之介は、先頭打者としての義務を痛烈に感じていた。 三球目。球威の衰えないストレートが飛んできた。ついていけないスピードでも、決して力をゆるめることなくバットを思い切り振り抜いた。 キンッ!! 『強烈なあたり!藤波打った!』 打った球は三塁線を転がりながらも、疾走していった。一刻商のサードはダイビングジャンプをして左手を目一杯延ばして、ボールを懸命に取ろうとした。 それでも、ボールはサードのミットを弾いて離れていた。喜ぶ竜之介であったが、三塁線を破ることはなかった。 「ファール!」 一塁審判が大きくVの字型に両手で上げた。 『ファールです!ファール!しかし、藤波の当たりは芯を捉えていました!』 「く〜」 あたるは両手を握って一生懸命悔しがった。しかし、直ぐに他のナインがベンチから飛び出して、竜之介に大きな声で、応援を始めた。 「いけェ!竜之介!まだ、アウトじゃねえ!!」 「もちろんだ!」 竜之介はバットを彰に向けて、少し挑発する素振りを見せたが短時間だけだった。少しのどを鳴らして、バットを大きく回した。 見逃しとファールでツーストライク。彰は少し誘い球を投げてくるかもしれない。しかし、真っ向勝負で三球三振を狙っているのか。 竜之介は頭をフル回転させた。打つべきか、見るべきか・・・。日頃考えることを得意としない竜之介が、追いつめられたこの状況で考える余裕はほとんど無かった。 (ええい、野生の勘だ!) 彰の投げたボールは布にはさみを入れ込むようななめらかさで、空気を切り裂いてミットに突進していった。竜之介はバットを体中の力をみなぎらせて振った。 キンッ!! 『藤波、ボール球に手を出した!』 竜之介の肩の高さより少し上の高さのボール球だ。 『しかし、勢いは弱い物の飛んだ場所は一二塁間のど真ん中!!』 ボールはポンポンとグラウンドの土をバウンドする事に蹴っていき、一二塁間を走った。一刻商の内野陣は全力疾走をかけて、ボールに飛び込んだ。 「取るなァ!!」 竜之介の言葉に反応したのか、しなかったのか、ボールはファーストのグラブをかすった。 少し方向の変わったボールはちょうど、セカンドの飛び込んだグラブの中にすっぽりと収まる形になった。 「チッ!!」 竜之介は舌打ちをした。竜之介は走ることによって生じる向かい風を顔に受け、髪をなびかせ、土を激しく巻き上げながら一塁ベースへ向かった。 彰がベースカバーに入ってきたのを見た竜之介は、舌打ちをしてさらに全力で走った。大して走る速さは変わらなかったが、その闘志がファーストに走ってくる彰を多少恐れさせた。 (させるか!) 一刻商の誰もがそう思った。 ボールをジャンプして何とか取ることのできた一刻商のファーストは芝に体をこすりつけながら取った喜びにふけることなく、一塁にいる彰に投げた。 それを見た竜之介はとっさにヘッドスライディングに転じた。体が一瞬中に浮き、一瞬の無重力状態を竜之介は感じた。目はまっすぐ一塁ベースを捕らえて、手はコンマ一秒もかからない距離にまできていた。 そして、体が地面にこすれ、土が舞い上がるのと同時に竜之介の手はベースに触れた。しかし、それは同時に彰のグラブの中にボールが納まった瞬間でもあった。 ほぼ同時の出来事であると思った彰と竜之介は審判にすばやく視線を移した。 「セーフ!!」 大きく手を左右に広げ、審判はまるで叱るように叫んだ。 『セーフです!!セーフです!!一番藤波、内野安打で出塁!ノーアウトランナー一塁!友引高校はこのランナーを生かすことができるのでしょうか!あるいは一刻商がそのまま逃げ切るか!』 「よっしゃァ!!」 あたるは因幡の首を自分の右手に抱え込み大いに喜んだ。あたるが声を上げるたびに因幡の首は大きな振動に巻き込まれたが、顔は笑っていた。 同じくしてナインがガッツポーズを取ったり、隣にいる友と手を叩いたり、抱き合ったりと同点のチャンスに喜びを体の中から沸き立たせた。 竜之介は一塁ベース上で大きくガッツポーズをとった。 (やったぜ。コースケ!) 竜之介は病院で静かに戦局を見守る友引高校野球部の最高のキャッチャーに心の声で呼びかけた。 『ノーアウト一塁!同点のランナーを背負ったまま、黒川のピッチングは再開します!しかも藤波は県内屈指の俊足の持ち主!状況が苦しくなる一方です!』 因幡はバッターボックスに向かった。やることは最低限竜之介を二塁に進ませること。 出来れば自分も塁に出るべきだ。バッターボックスに向かう途中で何球目を打つべきか、因幡の頭はフル回転していた。 竜之介と逆に考えることは得意な因幡だが、結論が出るのはいつも遅い。じっくり考えすぎて、逆に深みにはまるのが、落ちパターンだ。 結局、因幡も竜之介と同じ考えに達した。 (野生の勘だ!) 本人は竜之介と同じ事を考えていたとは知らなかったが、いまの自分に出来ることと言えば、2人とも野生の勘で打つしかないである。 答えは2人とも一つに絞られていた。竜之介は内野安打で運と実力を上手く組み合わせた。因幡も出来るはずだ。ただ、出来ない確立の方が数値が圧倒的に上であるが・・・。 圧倒的に少ない確率を生かすことを奇跡と呼び、奇跡は誰にでも起きることだ。ただ、その機会が少ないだけである。 因幡はバッターボックスに立つと、無駄な動きをせずバットを構えた。 (繋ぐ・・・。絶対に諸星さんに繋ぐ!) 彰はジッと睨んでいる因幡を睨み返す事はせず、ただ敵意のない目で見ていた。甲子園に行くためのたった一枚の切符を争う相手としてのライバル意識のある目だった。 彰は一塁ベースからリードを取っている竜之介を監視するようにチラッと見ると、空気だけしかない彰と因幡の間に白くて堅いボールを走らせた。 ボールが手から放れる瞬間、彰の目に因幡の目が映った。ほんの一瞬見たその目に挑戦状をたたきつけた。打てるモノなら打って見ろ!と。 ビクッ! しかし、挑戦状は因幡には通じなかった。彰の体の芯から恐怖が沸騰してきて、一気に体外に噴出した。その瞬間、ボールが左に大きく逸れた。 バッターボックスにいる。因幡、一刻商のキャッチャー、球審の左側を時速145キロのストレートが一瞬にして後に過ぎ去っていった。 『黒川のボールが大きく逸れた!!その間に藤波が二塁へ向かう!』 一刻商のキャッチャーはマスクを放り捨てると後方のボールを追った。ボールは思ったよりスピードが速かったらしく、その分跳ね返ってくる力も強かった。キャッチャーマスクが地面に落ちて 左右に揺れるのが終了する前に矢の如くボールが二塁ベースに投げられた。しかし、それは焼け石に水であった。投げ終えた瞬間に竜之介の姿がキャッチャーの目に入り、 もう既にベース上に立っていて、余裕を見せていた。無意味に投げられたボールはセカンドが捕球され、何するまでもなく彰に投げた。 『ピッチャー黒川のワイルドピッチです!ノーアウト二塁!得点圏内にランナーを進めました!』 (な、なんだ・・・!?) 彰はセカンドから投げられたボールをグラブに納めると、帽子を深く被って動揺している顔を見せまいとした。そして、因幡の目が先ほど感じた恐怖の原因であることを確信した。   友引ベンチ 「また、やりおった」 「因幡くんの睨み戦法?」 親父のつぶやきに、ラムが付け加えるように答えた。先ほども、彰に変わる前のピッチャー・大山も同じ被害を受けていた。 「ホントに怖いのかな?」 「さあ・・・。お前もピッチャーやってみたらええ」 何気ない会話のあたるは耳を傾けていた。こんな緊迫した状況で何という会話をしているんだと心の中でツッコミを入れたが、あるいはそれは緊張を和らげるための 会話だったかもしれないと思うと何も言う気になれなかった。 ワァー!!! 球場内に大地を揺るがす程の大歓声が起きた。ラムと親父の会話に集中している間に、因幡が何かをやらかしたらしい。 直ぐさまバッターボックスを見るとボールが彰とキャッチャーのちょうどど真ん中を殆ど死んだように転がっていた。因幡はと言うと、一塁ベースへ走っている。 竜之介も三塁へ向かっていた。彰は死んだボールを追いかけている。 『セーフティバントだァ!!』 あたるは落ち着いたような顔をして、しかし、汗が頬を伝っていた。あまりにも急なことで声は出なかったが、両手はこれ以上にない力で握られていた。 (いけ、因幡。行け!!) 頬から垂れ落ちた汗が、握り拳に落ちたことにあたるは気付かなかった。彰は全力疾走でボールを取るとほぼ180度逆方向にボールを投げた。一塁へだ。 それを知ってか知らずか、因幡は九死に一生を欲するように土を巻き上げながら、因幡はヘッドスライディングを試みた。体が緩い放物線を描き、因幡の体が中に浮いた。 しかし遅かった。ファーストミットに彰から送球されたボールがぶち込まれたのである。それが終わったコンマ数秒後に因幡の手がベースの上に乗った。 審判がアウトを宣告した。 『アウトォ!しかし、藤波は三塁へ!因幡最低限の仕事をしました!』 因幡はヘッドスライディングで汚れたユニホームの腹の部分をぱんぱんとはたき、友引ベンチへ歩いていった。そして、小さくガッツポーズを取った。 あたるはその因幡を見た。アウトではあったが、同点のチャンスに繋げた。コレまで何度も甲子園に行くチャンスを持ち、しかしそれの出来なかった友引高校をやっとここまで連れてきたのだ。 至上まれに見る友引高校のレベルの高さ、コレを甲子園で見せずしてどうする?それが因幡の今の正直な気持ちだった。 因幡はベンチに歩いてくる途中、バッターボックスに向かうあたるのところに向かった。 そして、お互いの右腕の、右手の、手の平をそっけなく、しかし託す側から託される側に向かって意志を繋げる意味で叩いた。 ただ、それはこの後あたるは彰と勝負するという最大のチャンスとピンチを生かして欲しいという因幡の意志も込められていた。 「勝つよ、この勝負」 そう呟くとあたるはヘルメットの鍔を上げて、マウンドの上の倒すべき相手を見た。 その男は自らが尊敬する男の従弟で、尊敬する人物より野球の才能が高く、そして友引高校が甲子園にするためには 越えなければならない最大の壁だった。そして、密かにラムを想っている人物だった。あたるがそれを聞かされたのはつい先ほどだった。 試合前日、ラムが買い物をしている最中に偶然会った彰は言った。 「もし、今度の決勝戦で俺が勝ったら一刻商の試合を見て欲しい・・・、甲子園に・・・」 そういわれたラムがどういう意志を持って、今、それを聞かせたは不明だが、あたるはこれに怒りでもなく、またラムに対する独占欲も出てこなかった。 そして、ラムに返した言葉はこれである。 「もし、一刻商が勝ったら甲子園の試合、見に行けよ」 ラムはショックだった。しかし、ついでにこう付け加えた。 「ただ、友引高校が勝ったら、俺達を見てろよ」 そして、あたるは最終決戦の舞台へ歩いていった、ラムが背番号1を見つめたまま・・・。 〜続〜