第一章   楽しげな笑い声を振りまきながら、制服の学生たちが登校していく。  「いってらっしゃい、気をつけてね」  「おはよう、ねぇ、あれどうした?」  朝の挨拶が町のいたるところから漏れ聞こえる。  友引町、かつての狂乱も夢の彼方に過ぎ去り、穏やかで緩やかな日々を見送っていた。  通勤通学の乗客を満載したバスがエンジンを唸らせ、バス停を発車した。  「あっ、こらっ待てっ!俺が見えんのかっ!」  一歩及ばず、バス停に駆け込んできた一人の青年が、去り行くバスのテールを見送り嘆息した。  「まぁ、いいか」  彼、諸星あたるは呟き、忙しなく行き交う車の流れを眺める。  格子模様の入った、淡い青のボタンダウン。  あたるはその上に薄茶色のカーディガンを羽織り、袖を胸の前で結んでいる。  背負っていた巾着のバッグを降ろし、車道を背にしてベンチへ腰を下ろした。    彼の目の前を、制服のスカートをなびかせながら女子学生が自転車で走り抜けていく。 紛れもなく、彼の母校である友引高校のセーラー服だ。  あたるは目を細めて、名も知らぬ後輩を見送った。    諸星あたるは無事に高校を卒業し、今や三流私大生であった。  高校時代を共に過ごした悪友たちも散り散りになり、彼を取り巻く環境も若干の変化を見せていた。 友引町は都心から離れているためか、古い景色が多く残されていた。  木造のアパート、煤けた銭湯の煙突、狭い路地、神社の境内と気が遠くなるような樹齢の巨木。  諸星あたるにとってはすっかり見飽きた、しかし最も安心できる町並みであった。  「あれ、あたるくん今から?」  バスを待つ あたるの横から幼馴染みが声をかけた。 「おはよう」 「早くはないけどね、おはよう。今日、少し寝坊しちゃって……」 三宅しのぶが悪戯っぽい笑みを浮かべた。諸星あたるの幼馴染みであり、同じ母校をもつ学友でもあった。  トレードマークのおかっぱ頭は今も健在である。  僅かにピンクがかったブラウスに、オフホワイトのフリルジャケット、素材は麻綿である。スカートも綿で、ピンクの細かい花柄が入っていた。  肩からは麻のトートバッグを下げている。   「ラムは今日、一緒じゃないの?」 周囲を見回しながら、しのぶが何気なく言った。 「ん、実家に用があるとかで出かけてる」 「ふぅん……」  気のない返事を返しながら、しのぶは横目で彼を見た。  彼の側にラムがいないというだけで、こうも周りの景色が違うものなのかと改めて感じていた。   間もなく路線バスが停留所に到着し、二人は定期券を片手に乗り込んでいく。 車内は満席、吊り革に捕まる乗客の腕が林のように通路に並ぶ。 しのぶは手近な手すりにしがみつき、あたるは彼女の背後から同じ手すりを掴んだ。 お互いの吐息も聞こえる至近距離で、一瞬目を合わせる。 「よう、あたる!」 混みあった車内で、強引に乗客の中を掻き分けながら旧友が近づいてきた。 周囲から顰蹙を集めながらやってきたのは白井コースケであった。 かつては諸星あたると共に町内で悪名を轟かせた悪友中の悪友である。 「なにやってんのよ、もう!みんな迷惑するでしょ!」 彼を睨みつけ、しのぶが厳しい声で叱りつけた。 「よう、しのぶ!久しぶり、元気だったか?」 「一昨日会ったばっかりじゃないの……」 上機嫌にあいさつするコースケに対し、しのぶは嫌悪感を露骨に顔に表した。 「あたるぅ、今日はラムちゃん一緒じゃないのか?」 「ん?ああ、なんか用事があるらしい」 「なんだよ、用事って」 「知らん」  あたるは素っ気無い返事を返すと、何気なく窓の景色に目をむけた。  バスが大きく揺れると、乗客もそれに振られる。 あたるは足を踏ん張り、手すりを掴む腕に力をこめて踏みとどまった。 しのぶの背中に、僅かに触れたあたるの体温が伝わる。 彼女は、強く手すりを掴む彼の手をふと見つめ、彼の表情を窺い見た。 あたるは平然と、涼しげな表情で彼女を見返した。 「そう言えば、しのぶ……なんで あたると同じ学校にしたんだ? 結構成績良かったはずだろ?」 コースケが脈絡もなく、しのぶに尋ねた。 「別に……一番近い学校だったから」 「それだけ?」 「そうよ、どうして?」 しのぶが不思議そうに聞き返す。 「いや、なんとなく」 コースケはそう言い、あたるに目を向けた。 「お前ら、長いよな……」 コースケが言うのは、同じ学校に通った期間の事だ。 幼稚園から始まり、小中高とすべて同じ学校に一緒に通った。  「だって、近所だもん……当たり前でしょ?」 「……そう、かな」 事も無げに言うしのぶに、コースケは少し釈然としない様子だった。  晴れ渡った空の下、キャンパスを学生たちが闊歩する。  地元出身の学生が多く、高校時代に見かけた顔も少なからず見受けられた。  いくつかの受講を終えて、しのぶが友人たちと肩を並べ談笑しながら歩いていくと、二人組みの女子生徒に追いすがるように話しかける あたると出くわした。 「え〜っ、でも諸星くんって結婚してるんでしょ?浮気しちゃだめだよ」 「いったい、どこからそのようなデマが……?」 「デマなの?ラムさんと一緒に暮らしてるって聞いたけど」  擦れ違うしのぶに気付きもせずに、あたるは熱心に口説き続ける。 「しのぶ、あれ、なんとかした方がいいんじゃないの?」 あたるが離れるのを待って、しのぶと歩いていた友人たちが足を止め、顔を顰めながら言った。 「なんであたしがっ?」 「幼馴染みなんでしょ?あなたの言う事なら聞くんじゃない?」 「ほっとけばいいわよ、どうせ誰も相手にしないんだから」 そう言って、またしのぶが歩き出す。 そのまま、しばらく歩いていくと校舎の角から、さっきとは別の女子学生にモーションをかけている あたるが現れた。 「ん、もうっ、しつこいなぁ、他を当たってよ!」 あたるを邪険に振り払い、その学生は足早に去っていった。 「そんなこと言わないでさぁ、十分だけでもいいから!」 それでもあたるは諦めずに、彼女の後を追いかけていく。  彼女は追いすがる彼の腹に肘打ちを見舞い、腹を抱えて呻くあたるを置いて立ち去っていった。 「しのぶ……」 その様子を見ていた友人が、しのぶに訴える。 「もうっ、分かったわよ!あたしが行けばいいんでしょ?」 苛立たしげな様子で言うと、しのぶはあたるの方に歩み寄っていく。 「あたるくんっ、ラムがいないからって見境なく ちょっかい出すのやめなさいよ、  もぉっ! みんな迷惑するでしょ!」 しのぶの声に振り向き、あたるも何食わぬ顔で近づいてきた。 「よぅっ、講義はもう終わったのか?この後時間ある?」 「ないわよ、帰ってレポート書かなきゃ」 「あ、そう」 しのぶの返事に素っ気無く答え、彼女の背後で様子を見てた友人たちに目を向けた。 「諸星くん、もう高校生じゃないんだから少しは落ち着いたら?」 あたるの視線を受けて、友人が呆れた様子で言った。 「俺、落ち着いてないかな?まぁ、そう変わらないかもね。  それにしても、可愛い服だね……よく似合ってる。そのイヤリングもお洒落だね」 「あ、ありがと……でも、あたし誘っても無駄だからね……彼氏いるから」 「えっ、いるのっ?」 あたるではなく、しのぶが驚いて尋ねた。 友人は咳払い一つして、目でしのぶを牽制する。 「あ、ごめん! 分かった、あたるくん……一時間くらいなら時間あるから」 だが、あたるの表情は冴えない。 「そっちの子の方がいい」  あたるは後ろの彼女を指差して、物をねだる子どものような口調で言った。 「あんたねぇ、このあたしが付き合うって言ってんのに、その態度はないでしょっ?」 しのぶが あたるの襟首を高く掴み上げた。 あたるの足が大地を離れ、中空を蹴っている。 「じゃ、じゃあ、しのぶ……あと任せるから!」 友人二人は、その様子をみて表情を強張らせると逃げるように去っていった。 「今度、カラオケでも行こうよ!」 しのぶに持ち上げられたまま、あたるが彼女たちに声をかける。 「考えとく!」 二人とも振り返り、微笑みながら軽く手を振った。 「まったく、懲りない男ね……」 あたるを降ろし、しのぶが呆れて溜め息をついた。 「あの子、スタイルいいなぁ……彼氏いるってホントかな」 しのぶの肩越しに、もう見えなくなった友人の姿を見送りながら、あたるが呟く。 「いたって不思議じゃないでしょ?ほら、どこに行くの?」 あたるの耳を思い切り引っ張って自分に向かせると、しのぶが言った。 「……適当に歩くか」 耳をさすりながら呟き、あたるはキャンパスを校門に向って歩き出す。 「あたしだと適当なのね」 「お互い様だろ」 「……まぁね」 二人は肩を並べて歩きながら、吹き抜ける風に目を細めた。 南風、もう夏の入り口に差し掛かる季節になっていた。 駅前の本屋を覗き、参考書を見て回ったあと二人はアミューズメントスポット、いわゆるゲーセンを訪れた。 体感ゲーム機やカラオケ、ボーリング場などもあり、とりあえずここに来れば遊びに困らないという便利な施設である。  今も、多くの若者が店内で楽しげな声をあげていた。 あたるとしのぶは、大きな画面のパズルゲームに興じていた。 上から落ちてくるブロックの色を合わせて消していくゲームだ。 「あっ、あっ、ズルいぞ、しのぶ!」 「なにがズルいのよ、こういうゲームなの!」 序盤こそ互角だったものの、連鎖消しを多用するしのぶの前に、あたるはたちまち窮地においやられていた。 連鎖消しをすると、その数に応じて相手に障害ブロックが送り込まれる仕組みになっており、終盤にこれを大量にやられるとお手上げなのだ。 「ちくしょうっ、もう一回だ!」 「いいわよ、負けた方がお金いれるのよ?」 「おう、覚えてろよ」 勢い込んで再戦を挑んだあたるだったが、雪辱を果たすには至らなかった。 前回よりは善戦したものの、力量差は歴然としていた。 気が付けば、背後にはギャラリーが足を止め、二人の勝負に見入っていた。 「行きましょうか」 しのぶは照れながら、そそくさとゲーム機から離れていった。 顔を近づけないと会話もままならないような、騒然とした店内。 二人は周囲の様子を眺めながら、ゆっくりと歩き回る。 「あ、あれ可愛い!取れるかな……」 しのぶが足を止めたのは、クレーンゲームの前だった。 ガラスケースの中に積み上げられた ぬいぐるみの中で、一際目立つペンギンの ぬいぐるみがあった。 「よし、任せろ」 失地回復とばかりに早速あたるがコインを投入し、チャレンジした。 位置的には取りやすい場所にあるはずの、その ぬいぐるみがなかなか取れない。 アームの握力が弱いのか、ぬいぐるみが重過ぎるのか、一瞬持ち上がるものの取り出し口に落とすまえにアームから外れてしまうのだ。 「もういいよ、あたるくん……」 「うるさい、気が散る!」 五回、六回と失敗するたびに あたるは一層ムキになった。 「無理だよ、もうやめようよ!」 「今やめたら、今まで注ぎ込んだ金が無駄になる!やめるわけにはいかん!」 「いや、もう取っても赤字確定だから……あぁ、もう見てらんない」 思わず目を覆うしのぶの言葉に聞く耳ももたず、あたるは更にコインを投入していく。 やがて、努力の甲斐あってか少しづつだが取り出し口に近づいているのが分かるようになってきた。 そして、ついに数十回目にして難敵を攻略せしめ、ゲーム機が軽やかなファンファーレを奏でた。 「きゃーっ、取れたじゃないのっ!すごい、絶対無理だと思ったのに……」 はしゃぐしのぶに、あたるも少し得意げな笑みを見せ、戦利品をしのぶに差し出した。 「やるよ」 「くれるの?あたしに?」 「俺が持って帰るわけにもいかんだろ」 「他の誰かにあげる気じゃなかったんだ?」 「……いらないなら別にいいけど」 受け取ろうとしないしのぶに、あたるはそう言って床に置いていたバッグを背負った。 「くれるんなら貰う!」 「そっか、じゃあやる」 「……ありがと」  しのぶはそれを受け取ると満面に笑みをたたえ、さっそくそれを抱きしめた。 「手ごわい相手だったぜ」 「ばか……」 「さて、茶でも飲んで帰るか」 歩き出すあたるの後をついていきながら、しのぶは手首を返して腕時計を見た。 「……まぁいいか」 しのぶは顔を上げ、あたるに歩調を合わせていく。  駅前通りから路地に入り、二人は雑居ビルの中にある喫茶店のドアをくぐった。 「らっしゃいっ!」 喫茶店にあるまじき、威勢のいい言葉が飛んでくる。 テーブルが三組、カウンター席が五つあるだけの狭い店だ。 浮き輪やサーフボードが片隅に置かれ、氷と一文字書かれた旗は一年中下げられる事はない。 店の名は《海が好き》 かつては浜茶屋を経営し、後に友引高校の購買部にも勤めた藤波家の主人がマスターである。 メニューに連なるのも、焼きとうもろこしやヤキソバ、かき氷などの浜茶屋メニューであった。 「よっ、また来たよ」 あたるがマスターに気安く声をかける。 「毎度!」 マスターもニヤリと笑い、景気よく応えた。 「どうも」 しのぶも、ペコリと遠慮がちに会釈して手近な席に座った。 「いらっしゃいませ」 水とオシボリを運んできたのは、黒いスラックスに白のカラーシャツ、黒のベストに蝶ネクタイというウェイター姿のウェイトレス、藤波竜之介である。 「俺、コーヒーね」 「じゃ、あたしミルクティー」 あたるとしのぶが相次いで注文する。 「かしこまりました」 竜之介が軽く頭を下げ、カウンターに向った。 「オーダー!ワンホット、ワンミティ!」 「あいよ、コーヒー一丁ミルク紅茶一丁ね!」 この親子の経営にしては、この店はまずまずの評判であった。 今も奥のテーブルに二人組みの女性客とカウンターに一人の男性客がいる。 かつての友引高校のクラスメートたちや教職員たちも頻繁に訪れるという。 「最初はどうなるかと思ったけど、ちゃんと商売になってるじゃない」 しのぶが感慨深そうに親子の様子を眺めた。 「まぁ、そうだな」 あたるはオシボリで顔を拭いながら相槌をうつ。 「お待たせしました」 竜之介は、コーヒーとミルクティをテーブルに置くと、当たり前のように しのぶの横に座った。 「よく来るな、おまえら……大学生って暇なのか?」 「暇っていうか、余裕はあるよね……時間に」 不思議そうに尋ねる竜之介に、しのぶが答えた。 「竜ちゃんは大学とか行かないの?」 「とりあえず、一年だけ店を手伝えば大学行かせてくれるって言うから、浪人したつもりで手伝おうかと思って。  どうせ、今んとこ何やっていいか自分でも分からないしな……」 今度はあたるの質問に竜之介が真顔で答える。 「体育関係とか向いてるんじゃない?学校の先生とか」 「俺が先生か?体育の?人にモノ教えるってガラじゃないんだよなぁ」 しのぶに言われて、竜之介が照れくさそうに頭を掻いた。  死別なのか逃げられたのか真相は謎に包まれているが、男よりも男らしい彼女は子どもの頃からの父子家庭であった。  父の商売下手もあって、藤波家の家計は常に危機的状況に置かれているのだ。  その父が大学の学費を出してくれるというなら、たしかにアルバイトする意義はあるだろう。  その約束を、父がちゃんと履行してくれればの話ではあるが。  「竜之介!」 彼女の父親、この店のマスターが竜之介を手招きする。 カウンターに行き、一言二言交わすと竜之介が戻ってきた。 「サービスだってよ、いつも世話んなってるから」 そう言ってタコヤキを一皿テーブルに置くと、竜之介は早速一つをつまんで口に放り込んだ。 「すみません、いただきます!」 「気が利くな、オヤジ!」 しのぶとあたるが礼を言い、マスターも笑顔で頷いてみせる。 「今日は、ラムどうしたんだ?一緒じゃねぇのか?」 竜之介は、あたるを見て言った。 あたるは、竜之介に視線を返しながらも答えず、まだ熱いタコヤキを頬張っている。 「実家に用事があるとかで出かけてるんだって。 朝からずっと同じこと聞かれてたから、ヘソ曲げちゃってるの」 あたるに代わって しのぶが答え、彼女も二つ目のタコヤキに手をつけた。 「あははっ、そりゃしょうがねぇよ……タコヤキにソースが掛かってなかったら誰だって探すだろ?」 豪快に笑いながら、竜之介はついに三つ目に手をだした。 皿に盛られていたタコヤキは八つ、三人で食べると誰かが二個しか食べられない事になる。 あたるとしのぶは二個づつ食べたので、今、皿に残っているのは一つだけだ。 二人の視線が、最後の一個に注がれていく。  ふと、しのぶはにこりと微笑み、あたるを見つめた。  「ん?」 あたるはその意味を考え込み、首を傾げた。 次の瞬間、しのぶが手にしていた爪楊枝が、最後のタコヤキを素早く貫き通した。 「あっ、俺のっ!」 あたるが慌てるが、すでに時遅く、タコヤキはしのぶの口の中に納まっていた。 「この間、面堂のヤツが来てたぜ」 二人の様子を見ていた竜之介が、微笑みながら言った。 「へぇ、そう言えば、卒業以来ずっと見かけてなかったな」 「彼、どこ行ったんだっけ?」 あたるとしのぶが、顔を見合わせる。 面堂終太郎は高校時代のクラスメートであり、あたるの好敵手でもあった。  面堂財閥の一人息子であり、容姿端麗にして成績優秀、運動能力も良好という逸材でありながら、要所で諸星あたるに出し抜かれ続けてきた不遇の少年である。    「なんか難しい言葉が多くて、何の話してんだかよく分からなかったよ。 とにかく、なんか日本で一番の大学に入って、もう卒業したあとに就職する会社も決まってるんだと……地元のエライさんとか役人とかにも挨拶して回ってるとか、すげぇ忙しそうだった。 うちの店にも五分くらいしかいなかったし……」 その時の様子を思い出しながら、竜之介が話した。 「まぁ、面堂財閥の跡取りだし……忙しくなるのはしょうがないわよね」 同じクラスで勉強し、何度か一緒に遊んだりもした仲間であった。 生き方は人それぞれとは言えど、かつての友人たちが散り散りになっていくのは寂しさを感じる。 物思いに耽るしのぶを見て、あたるがソースのついた爪楊枝を銜えながら意地の悪い笑みを浮かべた。 「何よ」 「惜しかったな、玉の輿狙ってたんだろ? こうなったらもう、ただ会うだけでも簡単じゃないぜ」 「いったい、いつの話をしてんのよ……そんなの、とっくに諦めてるわ。 女の子はね、気持ちの切り替えが早いの! いつまでも一人の男の事なんか構ってられないわよ」 呆れた様子でそう言い、冷めかけた紅茶を飲んだ。 「なるほど、そういうもんなのか……」 感心して頷いてるのは竜之介である。 「あんたも女でしょうに……」 しのぶが苦笑し、呟いた。 「まぁ、中にはラムみたいに一途な子もいるから一概には言えないけどね」 純朴な竜之介に対する影響を考慮し、発言を修正しながら あたるに貰ったぬいぐるみを膝に乗せた。 「あ、それ……」 しのぶの仕草を見ていた竜之介が、ぬいぐるみに興味を示した。 「これ?可愛いでしょ?」 「そこのゲーセンにあったやつじゃないのか?店の客に聞いたんだけどよ、あのゲーセンはズルくてさ……そのぬいぐるみ、人気があるらしいんだけど、それだけ他のより少し重くなってて取れないようにしてるんだと。 今まで何人も金注ぎ込んだけど結局誰も取れなくて……最近じゃ、もう誰もやらなくなったって言ってた」 それを聞いて、あたるとしのぶが顔を見合わせる。 「よく取れたね……」  呟き、しのぶがぬいぐるみを口元に掲げながら嬉しそうに笑う。 「そうと知ってれば手を出さなかったのに」 対照的に、あたるは沈痛な面持ちで悔恨の言葉を口にした。 「竜之介さん、いいですか?」 後ろの席にいた女性客が、竜之介に声をかける。 「はい、なんでしょう」 竜之介が席をたち、彼女達のもとに向った。  諸星あたるも席をたち、何食わぬ顔で彼女たちのもとに向った。  「な、なによ、あんたは呼んでない!」  「あ、あたしのジュース勝手に飲んだっ!」  女性客二人がたちまち騒ぎ出した。  「きみたち、可愛いね。どこの子?この近くに住んでるの?」  竜之介の対面に座り、あたるが女性客に笑いかけた。  「店の評判が下がるからやめてくれ」  そう言いながら繰り出した竜之介の拳が、あたるの顔面に突き刺さった。  「すいません、お邪魔しました!」  しのぶも慌てて、あたるを肩に担ぎ上げて回収し、元の席に戻っていく。  マスターはカウンターで暇そうに新聞を広げていた。 竜之介は女性客に座らされ、話し相手にさせられていた。  あどけない顔の竜之介は、女性客にも人気があるらしい。 あたるは、身体を大きく捻って、背後に座っている女性客の一人に視線を注いでいた。 「あたしの顔なんか もう見飽きてるでしょうけど、そういうのはやめて欲しいわ。  あなたって、いっつもそう!付き合ってるあたしがバカみたいじゃないの」 「そんな事言われてもしょうがない、遺伝子がそういう風にできてるのだ」  しのぶに向き直りながら、あたるが言い返した。 「あなたの頭に詰まってるのは豆腐かなんかなの?理性とか分別とか常識とかも覚えたらどうかしら」 「……ひどいことを言う」 「言われたくなかったら、バカはやめなさいよ」 涼しげな顔で言うと、しのぶは足元に置いたバッグを引っ張り出して、帰り支度を始めた。 「ミルクティ三百五十円ね」 しのぶは財布から小銭を出し、テーブルに乗せた。 「ちょっと待て」 「え、おごってくれるの?」 あたるの制止に、しのぶが意外そうな声をあげる。 「いや、そうじゃなくて伝票を見ろ」 しのぶは、あたるが指し示した伝票に目を向けた。 コーヒー、ミルクティに加えて、なぜかサービスだったはずのタコヤキ四百円まで記載されている。 「あのオヤジ……」 あたるの視線に気付いて、マスターが目を逸らす。 「最初に想定しておくべきだったわね……ごちそうさま」 「俺が出すのか?」 「あたるくんが誘ったのよ」 「俺、二個しか食ってないのに」 「遠慮しないで食べればよかったじゃない」 「……」 これ以上の議論は無意味と悟ったのか、あたるは不服そうな顔のまま伝票を手に席を立った。 予想通り、レジに立ったマスターは平然と伝票に記載された金額を要求してきた。 「タコヤキはサービスと聞いたんだが……」 「はて、何かの聞き違いじゃないかのう」 「こういう商売してると、そのうち潰れるぞ」 「今後ともご贔屓に」 あたるの忠告にも悪びれた様子もなく、マスターは笑みを浮かべた。 竜之介の方を見ると、彼女は慌てて目を逸らした。 間違いなく共犯である。 あたるは仕方なくタコヤキを含めた代金を支払い、店を出て行った。  裏通りから片側三車線の表通りに戻り、二人は夕暮れの街の灯を浴びながらゆっくりと歩いていく。 「ったく、アコギな商売しやがって」 「まだ言ってる……元クラスメートの家計を助けたと思って諦めなさいよ」 「俺は二個しか食ってない!」 「それはあなたの勝手でしょ!いい加減しつこいわよっ」 しのぶが怒りはじめてしまったので、あたるも黙り込んだ。 「さて、遅くなっちゃた……帰ってレポートやらなきゃ」 「学校の先生やるんだっけ?」 「やれたらね……あたるくんは何か考えてるの?」 「俺は何か思いついたことを適当にやるよ」 などと、たわいのない事を話しながら歩いていると、すれ違う人が上空を気にしていることに二人は気付いた。 天を指差し友人と何事か囁きあう者、携帯電話片手に何かを訴えている者など、正常でない事象が発生しているらしいと容易に想像できた。 「そう言えば、ラムはいつ帰ってくるって?」 歩道の真ん中で足を止め、しのぶが呟く。 「……いや、それは聞いてないな」 あたるも振り向くことを恐れ、立ち止まったまま答えた。  と、不意に周囲が白い光に包まれ、二人の身体がふわりと浮いた。 「もぉっ!あんたに関わるとロクなことがないわ……」 油断すると捲くれ上がりそうになるスカートを必死に抑えながら、しのぶが嘆いた。 街が勢いよく足の下に遠ざかり、二人は光り輝く円盤の中に吸い込まれていった。