(この投稿はNo.238-5「卒業、・・・そして」の続編にあたります)
星々のかけらがこぼれ落ち、イブの街は色とりどりの光でにぎわう。おと子との待ち合わせ場所へ歩みを進めるあたる。
人々が彼の影を追い越していく。あたるの足取りはいつになく重い。それは頬を突く冷気のせいではない、心に重苦しい決意を宿しているからだ。
あたるを見つけ、おと子が弾けるような笑顔で手を振る。微笑み返すあたるの顔に憂いの色が混じる。彼女は果たして、その事に気づいているだろうか。
あたるの用意した今夜のデートコースはプラネタリウムだ。星座が織りなす天界の物語に耳を傾ける二人。おしゃべりを楽しみたいおと子には物足りなかった。
軽い食事を済ませると、あたるが「星を見にいこう」と言い出した。プラネタリウムの後で? おと子はいぶかりながらもその言に従った。
最近のあたるは何か変だ。おと子の胸にいい知れぬ不安が渦巻き始める。
「あれがベテルギウスで、あっちがリゲル。カペラがあそこで・・・。シリウスは・・・どこだっけ?」
「シリウスは地平に近いから、ビルに隠れて見えないよ。プラネタリウムと本物の空はちがうんだ」
場を和ませようと星探しをしていたおと子の心遣いは、冷たい言葉で砕け散った。固い静寂の時が流れ、天頂に輝く昴(すばる)が冬の寒さを降らせてくる。
「おと子ちゃんは、どうして天文学を?」しじまのとばりを開いたのはあたるだった。
「あたるさんが居たから」話を弾ませるつもりのおと子の答えは、あたるの心を融かしはしなかった。微笑みを忘れた顔がおと子を見据える。
「ほんとは・・・星の海を旅するのが好きだから・・・かな」おと子は辺り障りのない返事をし、会話を続けたくて「あたるさんは?」と問い返す。
あたるは夜空を仰ぎ「大切な何かを、探すため・・・」と呟いた。「大切な何か?」おと子が怪訝そうな顔を作る。あたるは空を見上げたまま、話し始める。
「ぼくはね、高校時代の記憶を無くしてるんだ。僕だけじゃない、周りのみんなもそうだ。でも誰もその事に気づいていない」あたるが大きなため息を漏らす。
「人が変わったと、よく言われる。記憶を無くしたせいで、ぼくの心に大きな穴があいている。そこに何があったのか、どうしても思い出すことができなかった」
あたるがおと子に目を向ける。「それが何なのか・・・、教えてくれたのは君だ」おと子は驚きの顔つきであたるの視線を出迎える。
「大学に入って、おと子ちゃんと巡り会った。君と一緒の時間を過ごすうちに、心の穴に温かい春風が吹くようになった。その春風が、失ったものが何なのかを、
ぼくに教えてくれた。そして、・・・忘れていたものの一端をおぼろげながら思い出した」その言葉に、おと子の表情にいくらか明るさが戻ってくる。
「ぼくはむかし誰かを好きになった。そして、理由は分からないけれど、その女性(ひと)とその女性に関する記憶を全て失ってしまったんだ。ぼくはその女性の
顔も名前も思い出すことができない。でも、ぼくの探している大切なもの、それはその女性に他ならない」あたるが何かを求めるように空の彼方を見上げる。
「ぼくは最近まで、その女性はおと子ちゃんじゃないかと思っていた。でも、君に身近に接すれば接するほど、その女性の影は遠ざかっていく」
あたるが悲しい眼差しをおと子に投げかける。「僕の探しているその女性は銀河の流れの中にいる。この世界には・・・いないんだ」
その言葉を聞いて、おと子はあたるに背を向けた。彼女の背中が雨に打たれた子犬のように震えている。
「あたるさんは、名前も顔も知らないその女性が大切なの?・・・わたしよりも・・・」
それは、あたるの予想した言葉だった。そして、その問いかけに答える時こそ、おと子との別れの瞬間であることを、あたるは切ないほどに理解していた。
「おと子ちゃん。君のことは大好きだ、とても・・・。だけど、ぼくの胸の痛みが指し示すのは・・・その女性なんだ。ぼくは名前も顔も分からないその女性のこと
を・・・心の底から愛している・・・今も・・・。そして、これからもずっと・・・。だから、おと子ちゃん、君とは・・・」
「あたるさん」おと子があたるの言葉を遮った。これがおと子と交わす最後の会話なのだ、そう思うと、あたるは彼女に沈黙の華を手向けることしか出来ない。
「わたし、それと同じ話を知っている。わたしに良く似た女の子のお話。その子は遠い国の男の子と恋をしたの。周りからは喧嘩ばかりしているように見えたけれど、
心は通じていると思っていた。でも、些細な行き違いから仲違いして、意地をはり続けた二人は離ればなれになる。そして、男の子は女の子のことを忘れてしまうの」
あたるは無言のまま彼女の語る物語に耳を傾ける。
「女の子も男の子のことを忘れようとしたわ。だけど・・・できなかった。女の子は男の子にもう一度会いたくて、姿かたちを変え別な女の子になって男の子の前に
現れたの。二人はまた恋に落ちた。女の子は天にも昇る気持ちだった。女の子は普段と違う話し方をし、普段と違う立ち振る舞いをして、自分を隠し続けた。神経を
磨り減らす毎日だったけど、女の子は苦にならなかった。そうして、いつしか偽りの自分が本当の姿であるかのように思えて来た」おと子が涙声に変わる。
「でもね。あるとき女の子は気づいてしまうの。男の子が好きなのは、偽りの女の子の方なのだと。女の子は、いつか男の子に、真実を告げねばならないと悟ったの。
今日こそは、今度こそは本当の事を言おう。でも、どうしても言い出せなかった。幸せな毎日を、また失ってしまうのが恐かったから」
おと子が胸の前で手を合わせ、天空を仰ぎ見る。
「それまで、神様を信じなかった女の子は、そのとき初めて神様に祈ったの。どうか、どうか。男の子が真実のわたしを・・・好いてくれますように・・・」
おと子が束ねた髪を解きほどく。黒髪が虹色の流れとなって広がる。「そして・・・その願いは・・・今夜かなった」おと子がふりかえる。
「ありがとう。うちを選んでくれて!」涙で潤んだ翠色の瞳が、天上のどの星よりも美しくきらめく。「うちの、うちの本当の名前は・・・」
あたるが駆け寄り、おと子の最後の言葉をその腕に抱きしめる。
「もう・・・言わなくても分かる。思い出した・・・何もかも・・・。名前を呼ばせてくれ・・・。ラム」
「ダーリン」
街の奏でる賛美歌が、二人を優しく包み込む。世界の片隅でおきた、この小さな奇跡を祝福するために。
Amazing grace. How sweet the sound.
That sav'd a wretch like me.
I once was lost, but now am found,
Was blind, but now I see. |
|