雨だれ (Page 2)
Page: 01 02 03

そういって少しだけ頬を赤らめた。ちょうど、これからお茶の時間というせいか、あるいは雨が降っているせいもあるだろう、店内はほぼ満席であった。
「ご近所さんも、とっても親切にしてくれるし、不満に思うことなんて何もないわ」
「でも、随分遠くに行っちゃったね・・・」
「そうね、こっちとむこうじゃ文化も全然違うし、はじめのうちは慣れないこともあったけれど、私ってほら、結構そういうのに強いから・・・」

 ウェイトレスが、あたるの注文したエスプレッソを運んできた。もちろんしのぶの分も一緒だったが、彼女はそれには口を付けず、自分の話を続けた。
「住んでみると、とってもいいところよ。何となく落ち着いてる感じがするし・・・」
あたるは、彼女の薬指に輝いている結婚指輪が、なんとなく自分をはじいているような錯覚にとらわれた。リングが彼女の白くて柔らかそうな指にフィットしているのは、結婚以来、彼女が痩せも太りもしなかったということを表している。そう思いつつ、自分の薬指に視線を落としたあたるは、少し窮屈になったそれに、小さくため息をついた。
「ただ・・・、向こうのお義父さんの具合がここのところ良くなくて」
彼女の表情が、ちょうど今日の空のように曇った。
「コーヒー冷めちゃうよ」
少し間が開いてしまったので、気を使ってあたるがコーヒーを勧める。
「えっ、ああ、そうね」
あたるはしのぶの作った表情に、つき合っていた当時の彼女の面影を探して、懐かしむような表情を作って笑った。ただ先刻、喫茶店の入り口から、久しぶりに彼女の姿を見つけたときは、ちっとも変わっていないという印象を受けたが、こうして会話を交わしていると、あたるの記憶の中にいる“三宅しのぶ”とは、少しずつ違う部分を感じる。もちろん、月日の経過に関係なく、彼女が魅力的な女性であることには違いない。ただ、あたるの気付かない、しのぶの内面のどこかは、大人になってしまったのかも知れない。
「子供は」
「いえ、まだいないの・・・」
少しうつむいて、小さく首を振った。今日何度か見せた悲しげな表情・・・。
「ご、ごめん。何かよけいなこと訊いちゃったみたいで・・・」
あたるがあわてたように、謝った。
「いえ、そんなことないわ・・・。あたるくんの子供は」
「う、うん、女の子でね。もう小学生になるんだけれども・・・可愛くってねぇ」
子供のことを考えているときの親の顔というのは何ともだらしがないものだ。しのぶはあたるの、そのだらしのない表情をしばらく、じっと眺めていた。そんなしのぶの視線に気付いてか、あたるは恥ずかしそうに頭を掻いた。
「親ばかだな・・・」
「あたるくんに似てるの」
思いがけない質問に、あたるは一瞬考えた。
「うーん、そうだなぁ。どちらかというとラムに似てるかな。女の子だし」
しのぶは、あたるの話を聞きながら、窓の外に目をやった。ここ何年かで駅前の様子は随分変わった。道も広くなって、人の往来も多くなった。昔はこの喫茶店の窓からも、古い駅舎を見て取ることが出来たが、今は最近出来た駅ビルの陰になってまったく見えない。ただ、駅から線路に沿って、南へ、ずっと下り坂が続いているのは、しのぶがこの町から離れてからもずっと変わっていなかった。
「子供かぁ・・・。主人は、私のこと多分大事にしてくれているんだと思う。ただ、確かなものがないから・・・」
しのぶは再び視線を窓の外に広がる雨の町から、彼女の目の前に座っている、かつてのボーイフレンドに向けた。自分ではなくラムを選んだ、昔、好きだったひと・・・。
「私、怖いのよ・・・。主人もあたるくんみたいに、いつか私の前からいなくなってしまうんじゃないかって」
あたるは、手元の冷めかけたコーヒーに、口を付けた。香りが口に広がる。しのぶも、初めてコーヒーを飲んだ。雨足が強くなった。降りしきる雨が窓の硝子に当たって小気味よい音を立てている。
「最近、年を取ったって感じるわ・・・。若い頃はこんな気持ちになったことなんてなかったもの」
あたる達の隣に、大学生ぐらいのグループが座り、にぎやかに話し始めた。
「あたるくん、私ね、久しぶりにこの町に帰って来たら、なんでだろう、まず最初にあなたに会いたいって、そう思ったの。どうしてだろう、もう終わったことなのに・・・」
あたるは空になったコーヒーカップの底に目をやり、複雑な表情を浮かべた。それきり、お互いにしばらく何も言わなかった。雨雲が、より一層厚みを増しているような気がする。窓の外に目をやれば、急に強くなった雨足にあわててタクシーを拾う人の姿が目に留まる。隣の大学生達の大きな笑い声が耳元で聞こえた。雨の中、急ブレーキをかけた車がスリップする音が遠くで聞こえた。五分、十分・・・いやもっと長い沈黙のように感じられた。静寂を破るように、しのぶがぽつりとつぶやいた。

Page 1 Page 3
戻る
Page: 01 02 03