雨だれ (Page 3)
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「馬鹿ね、私ったら、何言っているのかしら、今さら・・・。でもきっと、あたるくんのことは忘れられない。忘れられるほど子供の恋じゃなかったわ・・・」
しのぶの大きなその瞳には、以前は確かにあたるしか映らなかった。しかし、今、下を向いていた顔を上げてあたるの姿を見ようとしても、彼の輪郭は涙で滲み、そしてこぼれ落ちてしまいそうだ。
「しのぶ・・・」
「だめね、年を取ると。涙もろくなっちゃって」
そう言ってハンカチで涙を拭う。あたるは、こんな風な形でしのぶと逢わねばならないことを理不尽に思った。高校時代、二人がつき合っていた当時、まさかこんな日が来るとは思いもしなかった。少し道路の方に張り出した屋根の先から、雨の雫がしたたり落ちる・・・ほんの一瞬のことが今はずいぶんと長く感じられる。ふと、人生なんてこの雨だれみたいなものだと思う。わずかな時間の間に、形を変え、輝きを変え、ただ地面に向かい落ちて行くことだけは確かだ。そしていつか地面に達し、他の雨水と共に流れ、その存在さえ確認できなくなってしまう・・・。
 ふたりの間に七年という歳月が流れ―それは雨だれが落ちる時間に比べてあまりにも長い―何もかもが、あたる自身も意識しないうちに変わっていってしまった。いや、人間はもしかすると雨粒なんかよりもっと不確かで流されやすいものなのかもしれない。


 「ごめんなさい。つき合わせちゃって」
「ううん、そんなことないよ」
雨の日の夕べ、駅のプラットホームで汽車を待つ。
「ねぇ、ひとつだけ訊いてもいいかしら」
そう言って、しのぶはあたるの方に急に顔を寄せた。昔と変わらない髪の匂いが漂ってくる。こうされると今でも、鼓動が早くなる。
「今でも・・・私のこと好き」
しのぶの両方の瞳からあふれ出した涙が、駅のライトに煌めく。あたるは、先ほど自分が考えたことに対し、疑問を感じずにはいられなかった。本当に何もかもが変わってしまったのだろうか。もしそうなら今、しのぶに対して抱いているこの思いは何なのだろうか・・・。汽車がホームに滑り込んでくる。その音に掻き消されないように、あたるはゆっくりと、そしてはっきりと答えた。
「好きだよ・・・ただ・・・」
「ただ・・・何」
「世界で二番目に、だけどね・・・」
軽くお互いの唇を重ねる・・・。あたるは、しのぶのぬくもりに、かすかな安らぎを感じた。少なくともこうして抱き合っている間は何も変わらないような気がしたから。
 列車が到着すると、吐き出されるように人の波が改札口へと向かう。
「相変わらず優しいのね。ラムが羨ましいわ」
しのぶはそう言ってまた、愛らしい笑顔―年齢には関係なく、はっきりとそう言える―をあたるに向けた。
「やっぱり・・・」
「えっ」
「やっぱり笑うと昔のまんまだね。高校生に間違われない」
一瞬間を置いて、しのぶが吹き出した。
「ぷっ、ふふふふふ・・・馬鹿ねぇ」
あたるもしのぶに微笑んだ。
発車を告げるベルが鳴り響いた。
「それじゃ」
「お元気で」
お互いに軽く右手をあげた。列車は再びゆっくりと動き始め、どしゃ降りの町へと向かっていった。

 「これできっと、あなたを忘れられる・・・」
しのぶは汽車からホームにたたずむあたるの姿を見つめながら、こうつぶやいた。けじめをつけたかった。もうあたるとしのぶの間には、昔のような“何か”はないから・・・。唇に残るあたるの体温を感じながら少し小降りになった雨の町に目を向けた。
「これで・・・よかった」

 あたるは汽車が彼の視界から完全に消えるのを確認した後、ゆっくりと改札口へと向かった。後ろを振り返ったりはしなかったが、それでもその短い距離を、かなりの時間をかけて歩いた。改札を抜ける。相変わらず雨のカーテンが視界をおおっている。思い立って、錆びついた屋根に目をやる。傾いた屋根を伝った雨水は、すっと一筋の輝きを見せて、あたるの足下へと落ちた。あとにはただ、先ほどと変わらない水たまりが、波もたてずそこにあるだけだった。

                                          おしまい

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