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「ビューティフル・ドリーマー」について
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No. 1-349 (2016/09/03 23:01:00)
Name :モーニングスケッチ
Title:最近見て思ったことです
最近、ビューティフルドリーマーを改めて見ていて、疑問に思ったことがあります。

それは、あたるが無邪鬼にお願いしたハーレムであたるが「ラムを出せ」というと、無邪鬼が「そんなことはできない、そもそもこの夢自体があの娘の夢なんだ」と言っていました。あのハーレムは、ラムの夢の中で無邪鬼が作り上げたものですよね(あたるがラッパを吹くとバクが目覚めてラムの夢を食べだしたときにハーレムも食べられていることから)。

ラムは自身の夢の中でも登場し、普通に行動しているのに、なぜあたるのハーレムに出て来れないのでしょうか。あたると無邪鬼がやりあっているとき、ラムはあたるの家で寝ていたのではないのか、無邪鬼かあたるのどちらかが、ラムをハーレム(場所も友引高校っぽい)につれてくることは可能ではないのか?と思います。わかる方教えていただけませんか?

それと、サクラと面堂が無邪鬼の策略に負けて、ラムの夢から排除されたとき、無邪鬼はあたるも排除できたと考えていたと思うんです(無邪鬼の「あたるの代役は私がやる」と言っていたセリフから)。果たして、その代役をしたとして、あたるがいない夢をラムが喜ぶのか?と思いました。あたるを排除できていようがいまいが、結局ラムの夢は、無邪鬼の暴走で近いうちに破綻していたんだろうな、と思います。皆さんはどう思われますか?。(最後は質問になっていませんね、すみません)。

No. 1-348 (2015/01/26 21:27:40)
Name :ピピマル
Title:BDとTV版最終回
BDのラストであたるはラムにキスをしなかった。
ラムの愛することがあたるの「責任」だったわけで、
それをしなかったことでラムの「夢」が続くことが示唆された。

それどころかBDの無邪気の最後のセリフは、
テレビシリーズひっくるめて「うる星やつら」がラムの「夢」であることを連想させる。BDは1日が永遠が続くけど「うる星やつら」は1年が永遠に続いているのではないかというわけだ。

テレビシリーズ最終回、サクラが婚約指輪をはめて時間が進み始めたことが暗示される。
最終回ラストシーン、あたるはラムにキスをして「うる星やつら」は終わる。

最近BDとTV版の最終回が繋がっているの気がついた。

No. 1-347 (2014/06/19 01:33:25)
Name :おやぶん
Title:正直なところ
あまり面白くないなぁ…というのが第一印象でした。
初めて見たのは中学生の頃でテレビの春休みアニメ特集だったと思います。
その後も何度か見ていますが、第一印象ってなかなか覆らないものですね。

好きか嫌いかでいえば、もちろん好きな作品です。
ただそれは、たとえば世界観・シナリオであり、うる星キャラ達とは切り離された部分なんですよ。
もしこの作品がうる星ではなくオリジナル作品だったなら、私はアニメ史上の傑作の一つに数えていたでしょう。
うる星だとなんとなくしっくりこないといいますか…。
そこが世界観を壊したと言われる所以ではないでしょうか。

あと個人的に気に入らない部分としては

・夢邪鬼のキャスト・藤岡琢也氏のアテレコがちょっと…。
・夢邪鬼があたるに悪夢を見せ続ける場面に冗長感

この2点かな。

それでも劇場版では完結編に次いで好きな作品なんですけどね。

No. 1-346 (2014/06/09 00:00:03)
Name :モーニングスケッチ
Title:映画では一番だと思います。
ビューティフルドリーマーは誰も悲しまないし傷つかないので好きです。いつものうる星やつらの日常の延長みたいなストーリーが気に入っています。

「オンリーユー」はラムは途中寂しく辛い屈辱的な思いをするし、エルもかわいそう。11年も思い続けたのに実はあたるの勘違いだったって悲しすぎる。

「リメンバーマイラブ」も途中二人は引き離されるし、「ラムザフォーエバー」も然り」。この二つはストーリーが今ひとつ私は納得がいかない。前者はあたるがラムを完全に忘れるところが許せない。後者は後半のストーリーがつまらなさすぎました。

「完結編」は文句なしにいいストーリー、感動もしますが、やっぱり途中あたるとラムの心はすれ違うし、これでうる星やつらが最後だと思うと何か寂しい。

「いつだってマイダーリン」は論外です。うる星やつらの世界感をわかっていない方たちが作った駄作だと思っています。

と、考えるとやっぱり「ビューティフルドリーマー」はいいですね。でも、ラムが望む夢は、この映画のような、みんなと一緒に楽しく暮らしたいと言うのではないと思います。原作者の高橋留美子さんもきっとそう思ったんじゃないでしょうか。だからこそ、この映画を評価してくれなかったのではないかと思うんです。ラムが真に望む夢はあたるとのことだけでしょう。

後で、因幡君が出てくる近未来の話では、今のまま変わらない未来を望んだのはしのぶでした。原作者の答えがここにあると思うんです。ラムは、自分の幸せを第一に考える多くの現実のヒトと同じであり、決して聖母マリアみたいなみんなの幸せを願う性格ではないんだということだと思うんです。原作者にとって、押井氏のいい子ちゃんすぎるラムの性格は、見逃すことが出来なかったのではないかと思っています。

でも、しのぶの夢を映画化する訳にはいかないので、ラムの夢ということにしたんだと思います。

しのぶは、皆が言う「アホのあたる」と昔からの幼なじみであり、しかも結婚までしてあげようとしていたんです。実際、献身的でよりマリアに近いのはラムよりもしのぶであることを念頭に原作者は考えていたと思います。だからこそ、しのぶの未来はこのままみんなが変わらない未来になったのだと思います。まあ、すべてリセットされますけど。

だからといって、私はしのぶより断然ラムの方が好きです。だってより生身の女性に近いような気がするからです。

無邪鬼の世界で出てくる白い帽子をかぶった少女は、僕の想像では、無邪鬼がきちんとラムの夢を叶えてくれているかどうかを確認するために、ラム自身が夢の中に第三者的な立場で出てきていると思うんです。

あたるが「好きな人を好きでいるためにその人から自由でいたい」というのを少女のラムが聞いてとっさに自分のことを愛してくれていると確信したんだと思うんです。でも、現実の世界で「俺がいつお前を愛していると言った?」と言ったものだからラムは「まだそんなことをー」と言ったんだと思っています。

でも、30年ぐらい経っても色あせないいい映画だと思います。

No. 1-345 (2012/11/04 02:43:16)
Name :ぴんふ
Title:はじめまして
BDを初めて観たのは小学校5年生くらいの時でした。劇場版の前作となるOYに続いてリアルタイムで映画館で観ましたが、小学生の私にとってBDはOYに比べて非常に「解りにくい」作品でした。

それから大学生になって、改めてBDをレンタルビデオで観た時、衝撃を受けました。それまで、同じ映画を続けて観る……なんてことは無かったのですが、4・5回続けて観るくらい面白かった(巻き戻し時間が長く感じる程)です。

BDって普通の映画の様なオープニングがありませんよね?いきなり本編が始まって→エンドロールの時にやっとタイトルが出てくる。当時からの私の解釈としては、本編=長〜いプロローグで、作品の最後の友引高校の始業のチャイム=本編の開始、って考えました。

本編=「うる星」と共存する世界はずっと続いていて……公開当時から20年近く経った今も続いている。「一生やってろ」って所でしょうか。

No. 1-344 (2012/03/15 22:56:12)
Name :ゴシック
Title:(無題)
私は単純にBDが好きです。いろいろ言われている映画ですが、私は、映画として観るなら名作、うる星としてはうる星の世界を壊している作品と考えています。しかし私はそんなこと関係なく、BDはすきです。

No. 1-343 (2012/02/20 00:05:17)
Name :バカルディ
Title:(無題)
コリエルさん、

>こちらからの返信が遅くなってしまい、今更と思われるかもしれませんがご勘弁を。
こちらこそ返信ありがとうございます。うる星やつらは色んな解釈ができますし、ゆっくりとでも語り合っていけたらと思います。

>深層心理のラムは「夢から覚めるためには、目が覚めたらどうしても会いたい人の名前を呼ぶの」とあたるに自分の名を呼ばせるための啓示を与えます。
どうしても会いたい人=恋しく思っている相手はラム。このことをあたる自身に言わせて言質をとり、「ダーリンと楽しく暮らす」を現実のものにするために。
そして、深層心理のラムはあたるが自分の名を呼ぶ事を信じて疑いません。ですから、白い少女の最後の言葉の意味は
「(恋しく思っている相手として、私の名前を呼んだんだから、)責任とって(私とちゃんと仲良く暮らしてよ)ね」
という意味になるわけです。
BDの解釈として、これが正解といっていいんじゃないでしょうか。押井監督の意図はもしかしたら違うかも知れません。でもうる星は高橋先生と押井監督という二人の天才が出会った奇跡的な作品です。うる星以後、押井監督はほとんどラブストーリーを描かなくなりますが、うる星はラムとあたるのラブストーリーがメインテーマなので、押井監督がご本人の意図を超えてラブストーリーを描かねばならなかった作品といえると思います。とすればコリエルさんの解釈が最適だといえるでしょう。

ところで旅の雪ダルマ情話については、確かに作画が酷い。下手というよりも、画風がまったく違います。にもかかわらず私がこの作品を好きな理由は、やはり押井うる星の、私が考える、テーマがシンボリックに示されているからです。それはラムによるあたるの救済というというものです。救いようのない凶相の持ち主で、いつも浮気心に囚われている、それでいて全然もてないという混沌とした人生を送るあたるを本当の愛のある人生へと救ったのはラムでした。ラムとあたるの同棲は星間タクシー組合の石油徴収に端を発します。事件の責任を問われてリンチされるあたるに対して、ラムはエネルギーの立て替えを持ちかけ、「お前を救えるのはうちだけだっちゃー!」と叫びます。ラムの救いは星間タクシー代の立て替えにとどまりませんでした。ときめきの聖夜、サマーデート、ミス雪の女王などでラムはあたるを救いました。
OYであたるがエルと結婚させられそうになるシーンはその集大成といえます。エイリアンたちの集まる混沌とした式場で無理やり結婚させられそうになるあたるは心身ともに弱ってやつれ果てていました。そこにラムがあたるを救いに教会の窓から降り立ちます。ダスティ・ホフマンのパロディーですが、混沌に囚われたあたるを天使のように救うラムは押井うる星のメインテーマをあらわしているといっていいと思います。
君去りし後でもラムがいなくなったと思い込んでボロボロにになったあたるを救ったのは、空から降りてきてコンクリート塀の上に座るラムでした。上から下へ、天から地へ。ときめきの聖夜でも「それでもうちはダーリンが好きだっちゃ」といってラムがあたるを救うことを決意するのは普通の人間なら登れない時計台の上からです。
BDにおいてはあたるは夢邪気に対してハーレムを望んだがために、それまでと違いラムのいない悪夢の世界に囚われます。それはラムによる罰ではありませんし、また夢邪気の嫌がらせというよりは、ラムとの愛をまだ完全には受け容れられないでいるあたる自らが招いた結果でしょう。少女姿のラム、ラムの深層意識はそんなあたるを救いました。自分への愛がその条件であるとの確信のもとに。
うる星の後、押井監督は天使の卵というキリスト教的で終末論的な作品を制作しました。またその後の作品でも押井監督はたびたび聖書から引用をしています。押井監督のラムへの解釈は私には救世主としてのものだったと思えます。
一方、山崎うる星のテーマはラムの愛と救いの記憶だったいえるのではないでしょうか。Remenber my love, Lum the forever というタイトルがそれを表しています。あたるが救いを忘れずにいられるか。あたるは間違いばかりおかしますが、ぎりぎりのところでラムの愛と救いを信じてそれにこたえたと思います。

No. 1-342 (2012/01/29 23:07:18)
Name :コリエル
Title:白い少女の意味するもの
バカルディさん。レス頂きまして、ありがとうございます。こちらからの返信が遅くなってしまい、今更と思われるかもしれませんがご勘弁を。

>私はテレビシリーズの旅の雪ダルマ情話にBDのエッセンス、さらにはうる星やつらのエッセンスが詰まっていると思います。
「旅の雪ダルマ情話」に関しては指摘されるまで忘れていました。原作と同じだった筈・・・という程度の記憶しかありません。そこで改めて視聴してみました。
で・・・結果は・・・。まず、絵が酷いです。それに、あたるのBLカミングアウト発言。ラムはあたるを残してUFOに帰ってしまうし・・・。
多分、これらの事が阻害要因になって私の記憶に残らなかったのではないかと・・・。
>あたるにとってラムこそが唯一の現実だった。それがうる星やつらの結論で、ボーイ・ミーツ・ガールのラストもそれを表現しているように思えてなりません。
この部分はおおいに賛同するのですが、「旅の〜」にBDのエッセンスが詰まってるという印象は受けませんでした・・・。制作者がどのような意図で「旅の〜」を
作ったのか知りませんが。私には単なる尺合わせ(原作を30分アニメにするための時間合わせ)の映像にしか見えませんでした。
私の感性が鈍いのかもしれませんが、映像作品は絵とストーリーと両方が良くて初めて心に響くものと思いますので、「旅の〜」とBDとは異質なものと思います。

話しをBDに戻して。
>BDでもあたるが夢邪気の作った夢の世界から抜け脱せたのは、少女の姿をしたラムの助けがあったから〜
>あたるを悪夢の世界から救ったのはやはりラムだったということに気づいて、BDも好きな映画の一つになりました。
こちらについては、全くバカルディさんと同意見です。ここからは、白い少女にスポットを当てて、BDについて書いてみたいと思います。
まず、白い少女の意味するものは何なのか?。
「白」「幼い子供」は純粋さを表していると考えます。そして、顔を隠している点は、ラムであってラムでないことを表現していると考えます。つまり、彼女はラム
自身も知らないラムの心。ラムの深層心理なのだと考えています。
さて、白い少女=深層心理のラムとして、彼女はなぜ夢邪気の夢の中に現れたのでしょう。彼女はかなり早い段階から夢に現れます。ですが、彼女は夢邪気にくみする
わけでもなく、あたるたちと接触するわけでもない。私には、彼女は何かの目的のために、夢の成り行きを伺っているように思えるのです。

ところで夢邪気はラムの「ダーリンと、お義母さまや、お義父様さまや、テンちゃんや終太郎やメガネさんたちとずーとすずーっと楽しく暮らしていきたいっちゃ」
という言葉を夢にしました。この言葉からラムにとって本当に大事なものだけを抜き出したらどうなるでしょう。きっと、「ダーリンと楽しく暮らしたい」が残る筈。
また、ラムにとっての「楽しく暮らす」は「面白可笑しく暮らす」の意味ではなく、「あたると自分が本物の夫婦のようにお互い愛しあいながら暮らす」ことであって、
これこそが、ラムの求めているもの、「うちの夢」=「将来、現実として実現させたい願望」だと考えられます。
ですから、深層心理のラムは、夢邪気の夢が言葉の表層を捉えたものでしかなく、早晩破綻すると分かっています。そして、そのうえで、夢邪気の一枚上手を行って、
夢邪気を出し抜こうと考えている。彼女の目論みとは、この機会に「うちの夢」を現実のものにしてしまおう、というものです。

深層心理のラムは「夢から覚めるためには、目が覚めたらどうしても会いたい人の名前を呼ぶの」とあたるに自分の名を呼ばせるための啓示を与えます。
どうしても会いたい人=恋しく思っている相手はラム。このことをあたる自身に言わせて言質をとり、「ダーリンと楽しく暮らす」を現実のものにするために。
そして、深層心理のラムはあたるが自分の名を呼ぶ事を信じて疑いません。ですから、白い少女の最後の言葉の意味は
「(恋しく思っている相手として、私の名前を呼んだんだから、)責任とって(私とちゃんと仲良く暮らしてよ)ね」
という意味になるわけです。

さて、夢邪鬼が実体を見せるまで、あたるは夢に便乗するだけの受け身の存在でした。ラムもしかり。ですが、深層心理のラムと出逢ったことで、あたるは夢邪鬼の
夢を終結させ、ラムの本当の願望を叶えるためのキーパーソンに変貌する。それまでの夢物語は、ラムとあたるのラブストーリーに純化されて、夢の終わりへと収斂
していきます。そして、あたるがラムの名を呼んだその瞬間、夢は相転移して現実に変わる、宇宙開闢のビックバンさながらに。
このあと、ラムとあたるのキス未遂があって、再び繰り返される学園祭前日のドタバタ、となります。これらは一見すると日常の繰り返しに見えるのですが、実は違う。
ラムとあたるにとってだけは。あたるは「どうしても会いたい人」としてラムの名前を呼んだ事を自覚していますし、ラム(少なくとも深層心理のラム)は自分の名が
呼ばれた事を知っている。ラムの「まだ、そんなことをー!」という発言が、そのことをあらわしています。
つまり、日常の繰り返しに見えて本当は、ラムの「夢」に少しだけ近づいた現実が新しく始まった、ということになるのです。
この意味で夢邪鬼の作った夢は「ビューティフル・ドリーム」ではなく、あたるがラムの名を呼んで生じた現実がラムにとっての「ビューティフル・ドリーム」になる。
ラムとあたるこそが「ビューティフル・ドリーマー(夢つむぐもの)」だったことを意味するのです。ラストシーンにタイトルが現れる理由が、ここにあったのだとは
思えませんか。

以上、長々書いて来ました。上記の内容が、押井守監督の意図を正しく表しているかどうかは分かりません。監督のBDに関する公式見解もしりません。世の中には、BD
に関して多種多様な解釈が存在し、どれが正解とかはないと思います。ですが、BDの根底に流れるテーマはやはり、それがラムとあたるのラブストーリーであるという事。
これが無ければ、いくら画期的な表現手法を駆使しても、これほど人の心を惹き付けはしない筈。そもそも、観客が色々な解釈を試みようとすらしない筈です。
そういう表現をBDに織り込んだという点で押井監督はやはり天才ですし、BDは傑作なのだと改めて思い直す次第です。

No. 1-341 (2012/01/08 19:32:48)
Name :チェリー
Title:あいつら〜!!
ラムちゃんとあたるもう少しでキスできたのに邪魔して〜!!

No. 1-340 (2011/11/26 19:47:54)
Name :バカルディ
Title:(無題)
BDが傑作だということは確かですね。押井守は天才です。哲学的な世界観を描けるということに加え、ときめきの聖夜やOYで示されたようにラブストーリーも一流です。
ところでかなり強引かもしれませんが、私はテレビシリーズの旅の雪ダルマ情話にBDのエッセンス、さらにはうる星やつらのエッセンスが詰まっていると思います。
雪だるま(のような宇宙人?)が女の子に化けてあたるをもてなす所までは何ということもありませんが、あたるは幻覚の中でまずはお雪やしのぶたち女の子たちに囲まれ、次にバッドトリップしたかのように面倒たちが支離滅裂なことを言う異空間に放り出されます。そうして一晩中幻覚の世界をさまよったあたるを待っていたのは、もちろんラムでした。人生、いろいろな人と出会い、いいことも悪いこともあるけど、あたるにとってラムこそが唯一の現実だった。それがうる星やつらの結論で、ボーイ・ミーツ・ガールのラストもそれを表現しているように思えてなりません。
BDでもあたるが夢邪気の作った夢の世界から抜け脱せたのは、少女の姿をしたラムの助けがあったからですし、目覚めたあたるの傍らにはちゃんとラムがいました。うる星やつらはラムによるあたるの救済劇といえるのではないでしょうか。そう捉えている私にとって、ラムがあまりにも受身に見えるBDの第一印象はあまり良くありませんでした。ですが、あたるを悪夢の世界から救ったのはやはりラムだったということに気づいて、BDも好きな映画の一つになりました。 
押井監督ならラムは夢の中にだけいる女の子で実在していなかったとか、あたるすら実在していなかったとかいう結末も考えそうですが、現実にはそうならず良かったですね(原作との関係やビジネス上の判断を考えれば当然でしょうが)。
旅の雪ダルマ情話に関してはうる星やつら全ストーリーの感想を網羅した某サイトでは詳しい評論を掲載されていますし、ここのユーザーの皆さんの解説もうかがえたらと思います。

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