Topic 6:降順
「ラム ザ フォーエバー」について
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No. 6-197 (2023/08/15 16:25:42)
Name :なるほど
Title:聞いてたより良かった
評判が悪かったので、気楽に見たのがよかったかな。
笑いは全くないし、意味も分かりませんね。
途中で、雰囲気系の映画だと分かったので、そのつもりで見ました。
そうすると、それなりに楽しめました。
過去の作品を思い出すところもありました。
面堂軍団、あたる母、ビューティフルドリーマーなど。
私にはビューティフルドリーマーより良くて、良かった順に、
完結編>>>1(OY)>4(LTF)>2(BD)=3(RML)
となりました。
普通の人と感性が違うんでしょうか。

No. 6-196 (2014/05/31 12:27:06)
Name :モーニングスケッチ
Title:ストーリー後半にもうひとひねりして欲しかった
悪霊が目覚めて、友引町の意識がラムを排除しようとして湖の中へ閉じ込めるシーンまではまだ見れるし、ストーリーも納得できたのですが、この先がいただけなかった。友引町の意識がラムを排除しようとしたのは、鬼姫の代わりとなったからと言うのも理解できます。

でも、そのあとの、面堂の夢と代理戦争を長々と見せられてもなあ、という感じで後半はまったくおもしろくなかった。

私的には、後半のストーリーはこのようにして欲しかったと思っています。

まず、目覚めた意識は、昔どおり、悪霊となって、異常気象や住民が不治の病にかかって寝込んでしまう。あたる達は、鬼姫の死骸を見つけたのだから、湖から引き上げて丁重に弔って住民たちは総出で祈りを捧げ続ける(元の友引町に戻ってほしいという気持ちを持って)。

あたるはラムの日記を読んでいた。この日記には、ラムがあたるをいかに思っているかを書いているものだったが、出会った時の事も詳しく書いてあった。例えば、初めて会った時の事、鬼ごっこの1日目、5日目、最終日のことなど。ラムは最初の鬼ごっこがとてもあたるとの関係において重要だという事を記していた。

これを見たあたるは、失踪したラムを取り戻すには、自分の思いをラムに伝えるしかない、それには、ラムの強い思いとなっている、出会ったきっかけになった鬼ごっこを再現するしかない、だから、俺は走るしかない。と思って、あたるだけは、面堂たちとは別行動で走り続ける。

住人たちの祈りとあたるの思いはとうとうラムに伝わり、ラムはあたるの元へ返りたいと思う。また、太郎桜も接ぎ木が成功し、鬼姫の霊も静まり、前と同じように悪霊が目覚めないようにする力を取り戻した。ラムが鬼姫の代わりになる必要も無くなった。そしてラムはあたるの元へ戻り、友引町もいつもの町に戻っていく。

というのが良かったと思っています。はっきり言って代理戦争とラム以外の夢なんて見たくもないという感じでした。

No. 6-195 (2013/08/14 15:28:47)
Name :rumik
Title:不思議
私はこの作品を見る前に色々本作に関する設定や解説を見ていたのですが・・・やっぱりそれでも難しい内容ですね。全体として透明感のあるBGMや優れた作画が本当に印象的です。
BDと関連性があるような作品ですが、BDとも違った雰囲気で秀作だと思います。今はこういった、見終わった後に深く考えさせるアニメが減っているように思います。
ただ、うる星シリーズの映画としてみると違和感が残りますね。OYと同じシリーズとは思えないです。

No. 6-194 (2012/10/19 17:06:16)
Name :めぐみ
Title:(無題)
海が好き掲示板でサーバーエラーというのでテストも兼ねて書き込んでみます。
一応リアルタイム世代。映画は劇場でなくビデオテープで見ましたごめんなさい。

最初見た時は難解で、なんだか暗い雰囲気だなあと感じたのを覚えています。
観た後で、少年サンデーグラフィックを古本屋で見つけて、劇場版の準備稿シナリオを読み、「ああ、あそこはそういうことか」と少しナゾが解けたというか。
メランコリーの軌跡も暗いと当時思ってましたが、大人になってから聞くとまた違う趣がある、かな?

No. 6-193 (2012/10/10 22:17:02)
Name :バカルディ
Title:Salvation from UY 2
悪霊はLTFでは友引町の象徴でもあります。友引町とはうる星やつらという作品そのもの。発想の転換が必要ですが、LTFでは友引町は悪です。なぜならラムを排除しようとするから。ではなぜラムを排除する必要があるのか? 異分子だからというのは表面的な理由です。ランやテンは排除されません。さくらの説明によるとラムはより強い意識体だからということになります。そう、原作においてラムは当初ゲストキャラクターとして登場したにもかかわらず、ヒロインとなり、うる星やつらをラムとあたるのラヴコメディーに変えてしまうほど強い意識体です。(それどころかラムはうる星の枠をこえて、日本人のヒロイン像を一変させたといってもいいのではないでしょうか。)友引町=うる星やつらにとってラムが脅威なのは、最終的にラムがあたるを救うということは、うる星やつらの終焉を意味するからです。あたるが浮気をし、ラムが追いかけて電撃を喰らわせているうちは、うる星やつらはうる星やつらであり続けます。でもラムが自分の夢を実現させ、あたるとの間に真の愛をはぐくむ様になれば、それはうる星やつらが終わるときです。LTFの基本構造は鬼姫ラムが悪霊と化した友引町と闘い、これに打ち勝ってあたるを救うというものです。つまりうる星やつらからの卒業、二人の未来に向けた旅立ちです。

鬼姫伝説同様に、太郎桜が切り倒されることで悪霊=友引町の意思が封印を解かれ、ラムの存在を消すとともに、新しい友引町=うる星やつらを作ろうと模索を始めます。セミの出現といった異常現象は、うる星やつらの世界が作り物であり、誰かの見ている夢であることを示しています。夢だから時空が滅茶苦茶になっている。

太郎桜の樹の下の鬼姫の亡骸はラムの死を予感させますが、救世主は人類の罪を贖って死に、そして復活するのです。LTFはラムの死と復活をモチーフにしています。

ラムが日記をつけ始めたことには、日々の記憶を大切にするとともに、生きようとする強い意思が感じられます。ラムは少女姿の自分と一緒にいるあたる(このシーンはBDを彷彿とさせます)を追う。同じころ、鬼姫の亡骸を見てラムが心配になったあたるは急いで家に向かう。あたるはラムの体調が悪くなっても浮気するなどひどい態度ですが、このシーンからは一貫してラムを思い続けます。ラムの日記に何が書いてあったかはわかりませんが、多分あたるとの何でもない日常について綴っていたんだと思います。あたるはそれを読んでラムの大切さに気づいたんじゃないでしょうか。LTFはラムの視点から見るとラムがあたるを救うストーリーで、あたるの視点から見るとあたるがラムを信じ、愛しぬくストーリーです。

ラムは幻想的なサーカス団を追って太郎桜の湖にたどり着きます。ラムが水中に入っていくシーンは入水自殺のようにも見えますが、水の中に入る前にラムがカプセルのようなものを口に含んでいることに注目しましょう。あれはTVシリーズでも出てきた水中での呼吸を可能にする鬼星の道具です。ラムはサーカス団に惑わされたのでも自殺したのでもなく、強い意思を持って湖底に向かいました。イエス・キリストが十字架上の死を経て黄泉の国へ赴き、死を征服し、三日目に復活したことを思わせます。雲の隙間から差し込む朝日のもと、悪に打ち勝つべく一人湖底に赴くラムほど気高く美しいヒロインはいないでしょう。私はラムがあたるの幻影を追いかけるところから、ラムのもとへ急ぐあたる、彼女の失踪を知るあたる、湖底にむかうラムまでの一連のシーンがLTFのなかでも特に好きです。二人が離れ離れになりながらも、その思いが一致する様を美しく描いています。あたるにとってはつらい別れですが、後で見るようにあたるはラムとの再会を信じ続けます。

No. 6-192 (2012/10/10 21:59:58)
Name :バカルディ
Title:Salvation from UY 1
この作品をはじめて見たときはまったく意味がわかりませんでした。でもこのスレッドの皆さん(特にエクレールさん、コリエルさん)の解説を読んだりしながら3回、4回と見ていくうちにこの作品のすごさに気づきました。LTFこそうる星やつらの最高峰であり、アニメーション映画の最高傑作です。押井うる星であたるにとっての救世主として描かれたラム(ときめきの聖夜、君去りし後、OY、BD)が、やまざきうる星ではあたるはもちろん、友引町(うる星にとっての世界全体)の住民全員の救世主になりました。LTFは映像表現、音楽の美しさはもちろん、そのテーマからもうる星やつらの最終話にふさわしい作品です。LTFのテーマとはラムとあたるのうる星やつらからの解放です。うる星やつらが続く限り、二人は恋人として幸せにはなれません。IMDを見ればわかるように。ラムの夢を叶えるには、あたるが真の愛を知るには、二人がうる星やつらを乗り越えなければなりません。

この作品を読み解くにはうる星全体から参照しなければなりません。LTFの制作、公開時期はTVうる星やつらの末期(公開は1986年2月、TV最終回の1か月前)ですが、この時期のTVシリーズのOP、EDはやまざきうる星の本質を表しているようです。OPはあたるの心象風景、またはあたるの恋人としてのラム。EDはラムの心象風景、またはあたると彼の住む世界の救世主としてのラム。

以降、LTFをできるだけストーリーの順に読み解いていこうと試みますが、その際に聖書を参考にします。これによって宗教的な心情を害される方がいらっしゃるかもしれませんが、私の主張は「やまざき監督は聖書の影響を受けてLTFを制作した」ということであって、宗教とアニメーションを同列に考えているわけではないことをお断りいたします。
ラムとあたるの登校シーンでラムが「ダーリン、うちらもう17だっちゃ」といいますが、これは時間が固定されたうる星の世界観(BD、RMLの世界観)に対するアンチテーゼであると同時にLTFが成長の物語であることを表しています。ここの所の解釈はこのスレッドにリンクのあったアメリカの方の解釈と同じです(No.6-73)。前作RMLではラムがいると時間が進まない永遠の夏休みの世界になりますが、本作ではラムはあたるに成長を促す存在です。もう十分遊んだんだから大人になって、そんなラムの声が聞こえてきそうです。また、ラムは人間として成長しているがために鳥との会話はできなくなりますが、ラストシーンであたるたちの所に帰還した際もこの緑色の鳥たちと一緒にいました。この鳥はラムの聖なる心の象徴なのかもしれません。キリスト教で聖霊が鳩の姿をしていると信じられていることと合わせて考えれば興味深いですね。

面堂邸の花見でラムは太郎桜のメロディーに耳を傾ける。ここから太郎桜はラムの心と共鳴する“いいもの”だとわかります。この映画では善悪がわかりにくいですが、ラムは絶対善の存在です。なぜならラムが主役の映画だから。この信条を受け容れないとLTFは楽しめません。なお、友引町自体は後述するように“悪いもの”です。

しのぶは桜のメロディーに聞き入るラムたちを「ばっかみたい」といい、「みんな飼いならされた子羊のようになって」と非難する。しのぶが悪人というわけではありませんが、このときのしのぶはラムから心が離れていた。よってしのぶの非難は逆に解釈できます。つまり、羊とは聖書に見られるように愛と平和に満ちた人々を指し、ラムの存在が友引町民に愛と平和を与えたことがうかがえます。

鬼姫伝説はやまざき監督によるうる星やつらのメタファーです。天の国から降臨した救世主ラムがあたるを救い、人々に愛と平和を与える。民話的なオリエンタリズムに覆われていてわかりにくいですが、この発想は日本文化にはないもので、キリスト教的なものです。鬼姫が降臨するシーンでのオルガン伴奏もキリスト教のイメージを強く感じさせます。鬼姫が悪霊を退治するために聖なる光を放つときのポーズは、右手を天に向かって掲げ、左手は横に伸ばしてやや下方に傾けるというもので、これもキリスト教美術を思わせます。悪霊は人々の悪意の象徴であるとともに、あたるの中の浮気性とか、悪い心を表しています。うる星やつらをラムがあたるに取り付いていた悪霊を追い出し、真実の愛を教えるストーリーだとすれば、鬼姫伝説はそのままうる星のメタファーです。やまざきうる星のスタートである「異次元空間ダーリンはどこだっちゃ!? 」でラムは完璧でないあたるとともに生きることを選びます。

No. 6-191 (2012/03/14 04:01:13)
Name :おやぶん
Title:良くも悪くも
印象に残る作品ではありますよね。自分、中学生のときに劇場で見たんですけど全然理解できませんでした。
20年以上たってうる星サイトさんの解説でストーリーがわかったんですよ。
ただ「訳のわからない映画だ」っていうことで強烈な印象は残りました。
そういう意味では私の中では「リメンバーマイラブ」よりは上です。

No. 6-190 (2011/12/25 18:32:25)
Name :コリエル
Title:疑問符から抜け出せない映画
私には理解できない作品です。理解出来ないが故に好きになれない。特別嫌いな訳ではないですが、「絵が綺麗」「音楽が良い」以上の感慨が湧いて来ません。
難解に作ったのか、それとも難解になってしまったのか? この作品を一回見ただけで理解できた方は何人いるのでしょうか?
話としては、太郎桜を切り倒したことを発端に、「友引町の意志」が活動を開始して異分子のラムを排除し、夢と現実の混じり合った友引町が出現。
疑似内戦が起こされて、町民が元の友引町を渇望する事で、友引町が元に戻りラムも帰って来る。という内容です。
見方によっては友引町住人がラムを救う物語とも言えるのですが、物事の因果関係や人物の行動理由に納得感がないため、さっぱり「予定調和の美」に見えない。

中盤までは謎を提示しつつ順調に話が進むのですが、あたるたちが面堂の祖父に「鬼姫伝説」の内容を聞きにいった頃、謎解きの当たりから理解不能になります。
面堂の祖父は登場せず、「鬼姫伝説」の真相は分からずじまい。太郎桜山の湖の底にあたるたちが赴くと白骨化した鬼姫が出現。その直後ラムが失踪。続いて、面堂
が見た未来の夢と、しのぶが見た明治期の夢が凍り付いて現実に現れる。この流れでは、「太郎桜ー鬼姫伝説ーラムの失踪ー街の異変ー友引町の意志」の関連が全く
見えません。ですから、体育館での面堂の説明も納得感がありませんし、内戦を起こす理屈も共感できない。
結末についても、「友引町の意志」なる者と町民の間でなんらのコンタクトもなく、象徴的な出来事も起こらない。そんな中で氷の町が崩壊して「目出度し目出度し」
と言われても首をかしげる他ありません。
「おれは走る」というあたるの行動は、ラムとの出会いの鬼ごっこを再現させることで、ラム帰還を願うあたるの意志と受け取れるので、ある程度納得感はあるのです
が、これまたラムとあたるの間に何ら感動的な出来事が起こる訳でもない。一体何を伝えたかったのか、理解しがたい映画です。

ラム ザ フォーエバーの公開日は1986年2月22日、アニメ放送終了(1986年3月19日)の一ヶ月前。原作も終了の1年前で収束に向かっている時期です。
製作者のモチベーションが低かったのか、それとも起死回生でビューティフル・ドリーマーの再来を狙ったのか、何でこんな映画になったのか理解に苦しみます。
哲学的テーマを深く掘り下げた積もりなのかもしれませんが、大量に仕込んだ伏線が回収できずに大穴が開いたままの内容になっている気がします。
面白いからでなく、理解出来なかったからという理由で心に残っている、私にとって悪い意味で印象深い映画です。

(※ご注意:以下で「ラム ザ フォーエバー」の準備稿について述べています。作品の印象が変わるかも知れません。「知りたくない」方は読まないでください)
少年サンデーグラフィックス No.15に「ラム ザ フォーエバー」の準備稿が掲載されています。そこでは、面堂の祖父により「鬼姫伝説」が語られており、それに
合わせて、体育館での面堂の説明も変化しています。また、ラムの失踪や全体の結末も微妙に違っています。内容は以下の通り。尚、()内は私の説明です。
<鬼姫伝説>
タヌキ村で村人たちに取り憑いていた悪霊(「村の意志」)は鬼姫によって地下深く封印された。鬼姫は一人ではなく、その後十代にわたって村を訪れ、村を守り
続けていたが、最後の鬼姫が病に倒れたとき、自らの力を神木に託した。その神木が太郎桜。
<体育館での面堂の説明>
太郎桜を伐ったことで、悪霊(「村の意志」)の封印が解かれた。(友引町はタヌキ村の跡にできたので、すなちわ「友引町の意志」が解放された。)
「友引町の意志」は生まれたばかりの赤ん坊同然。(「友引町の意志」が胎児のイメージなのはこのため。なぜ赤ん坊同然なのかの説明はない。)
「友引町の意志」は自らの理想の姿(町)を造ろうとしており、試行錯誤で住民の意識を探っている。終太郎やしのぶの夢が氷ついて出現したのはこのため。
(終太郎としのぶの夢の前に、友引町の地面から光の矢が発せられて二人の額を貫く描写がある。)
このままでは、「友引町の意志」がより強い意志をもった者の夢を選び、それが友引町の現実になる。そして、他の町民はその夢の中で暮らさねばならない。
打開策は、町民全員が昔の友引町への回帰を願うこと(誰の意識を探っても同じになるから)。そのために、終太郎は面堂家と水乃小路家の疑似内戦を起こす。
<ラムの失踪>
ラムの失踪は疑似内戦が始まってからで、周囲はラムに無関心。あたるだけがラムの失踪に気づき、戦闘を拒否し走り続ける。(走る理由を説明する台詞は無し。)
その後、友引町全体が発光を始める(上述の光の矢の連想から、町の次なる変貌の予兆)。その頃、ラムは湖底に向かい、太郎桜の切り株を胸に抱く。すると、ラム
の体が輝きだし、同時に友引町の光は弱まる。(ラムが現代の鬼姫として「友引町の意志」の力を押さえた。サクラがそれを暗示する台詞を言う。)
<結末>
ラムは精神世界で「友引町の意志」である胎児と出会う。一方、走り続けたあたるは面堂たちと合流し、全員が心の中で「元の友引町に帰りたい」と叫ぶ。
これに呼応するように「友引町の意志」はラムに対して「オモイデダケデイキテイケル」と語り、友引町は元に戻る。ラムは解放され、あたると再会してエンド。
(尚、サクラの「新たな地平を目指す」発言はなく、メガネたちがあたるを追いかけるシーンも存在しない。)

準備稿では「太郎桜ー鬼姫伝説ーラムの失踪ー街の異変ー友引町の意志」の関連性は説明されています。しかし、あたるが走る理由はやはり説明されておらず、
ラムがあたるを助け出すようなシーンや、それをイメージさせる出来事はやはり描かれてはいない。
30分アニメならいざ知らず、劇場公開する長編アニメならば、ラムとあたるの絆を感動的に歌い上げて欲しいわけで、準備稿のまま映画化されたとしても、
この作品を好きになったかどうかは分かりません。

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