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あなたの世界観
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No. 149-37 (2012/03/05 15:12:23)
Name :hk
Title:世界観
原作後半(最初らへんじゃないということ)とアニメの虚無感、SF感です。

このトピは殆ど一人のものになってるようだけど‥別日の数学の試験での生徒の循環論法を指摘する先生みたい。
アニメ、映画はおっしゃる通りつくる人が変わってるんだし、整合性にこだわりすぎなくても‥と思います。

あと話の土台がしっかりしてない(根拠がない)と演繹が意味を成さない

No. 149-36 (2011/09/03 21:00:27)
Name :バカルディ
Title:初期ラム派の世界観
初期の気が強いラムのファンにとっては、TVアニメ1話〜34話と完結編だけをうる星やつらのオリジナル・ストーリーと考えたほうがすっきりするかも。
後はファン・サービスの番外編。
まあ後のほうでも君去り後とか牛になるとか欠かせない話もあるけど・・・

No. 149-35 (2004/12/18 08:39:14)
Name :よしーま
Title:続・私の世界観(16)ときめきの完結篇
TVシリーズを後ろから遡って、
217話の「君去りし後」が第1話と考えた場合;
あたるの胸ポケットのラム人形は、モノとしてのラム=作品世界=うる星やつらのグッズの象徴。
うる星やつらは、もう20年前の作品です。
未だに、うる星グッズを持っている「あたる」のところへ、「ラム」が帰ってきたという夢の始まり。
この話の拡大版がLTF。

「ときめきの聖夜」が最終話と考えた場合;
(見かけ上ですが)普通の女の子になったラムの手を引いてホワイト・クリスマス・イブの友引町を歩く
「あたる」の夢。その先は夢の始まり。つまり、”一線(夢と現実の境界線)をこえる”ということ。
「ときめきの聖夜」が最終話だったらそれはそれは幸せな話。
ここで、はじめて、あたるの方からラムの手を握ったのです。この話の拡大版がOY。

うる星映画はみんな最終話の様相を呈しています。そのなかでOYが一番分かりやすい。
この映画で、二人は晴れて結婚式を挙げているではないか・・・といっても、あたるが逃げ出すというオチがついてしまったが。

結論:
TVうる星のあたるとラムの方が、大人の夫婦に見えます。(特に130話ラストシーンの会話)だからこちらの方が魅力的。
TV最終話なんかもう「ごちそうさま」状態でしょう。これ以上何を求める必要があるのかね?
私はTVシリーズとLTFまでの4つの映画で、十分。満足しています。

一年近くこの掲示板で書きたい放題書いたのですが、
つくづく思うのは、この「うる星やつら」という作品は、自分でいろいろ考えながら、いろんな見方を発見出来て面白いなと
思います。私はこの作品は「鏡」だと思っています。自分を映す鏡。RMLなんか鏡・鏡・鏡のオンパレードです。
自分がどういう美意識をもっているか、どんな世界観を好むのか、作品の方が教えてくれます。
作品自体は変化しませんが、「観ている人」は刻一刻変化しています。だから、10年後に見たらまた違って見えていることでしょう。

私も、この辺で”地上”に帰ろうと思います。このような発表の機会を提供してくれたここの管理人さんに感謝!
でも、”あの人たち”と付き合うのは並大抵のことではおまへんでぇ。”あの人たち”っていうのは
「あたるとラムちゃん」以外の誰かも指していたりする。

「行こか・・・」

(了)

No. 149-34 (2004/12/18 08:35:59)
Name :よしーま
Title:↓続・私の世界観 (15)うる星やつらを悪夢にしないために


No. 149-33 (2004/12/18 08:33:58)
Name :よしーま
Title:(無題)

ダスティン・ホフマン主演の「ヒーロー・靴をなくした天使」という映画があります。
ここで、「世の中は嘘だらけなんだ」という台詞があります。
「だからお前は好きな嘘を選んで、それを信じればいい。」

これは真理です。実際この世の中は、嘘が多い。マスコミ報道は特に。
そういえば、第一話で、しのぶはマスコミ陣の「おお!諸星くん、ラムちゃんと結婚するんですか」という
台詞を真に受けましたね。それは「誤報」なんですが、しのぶは身を引いてしまった。
世の中の情報群や、世間で言われていること、通俗などを、一々全部本当だと信じていると、何が正しいのか
わからなくなって、惑うことばかりになります。
大事なことは、自分で情報を”選ぶ”こと。そして、選んだ”真実”を信じることではないでしょうか。

これをうる星風に意訳しました。

うる星やつらは同人だらけ。全部正規品だとすると、原作派にとってのすべてのアニメ、特にBD。
押井派にとってのRML、LTF、TV最終回。やまざき派にとっての完結篇。
出崎派や原作派にとっての「ときめきの聖夜」「いつだってマイダーリン」に、傷ついてしまう。

うる星やつらは、途中から、ファンに同人誌・同人アニメを見せられたと同等のイメージクラッシュを
与えてしまう。

あなたの好きなその作品、他の人には、同人誌に見えている。

ひょっとしたら、うる星やつらは全部同人誌かもしれない。オリジナルの同人誌。
もちろん、正規品でもある訳だ。温泉マークかカクガリか。
それを「夢と現実」と言い換えて、うる星の本質をえぐって問題提起したのが、「ビューティフル・ドリーマー」ではなかったか。
あの夢を食い尽くすバクのお尻の(C)マークの隣には、誰の名前を書き入れるか。

同人というのは、パロディーということ。確かにパロディーはうる星の十八番ではありますが。

だから自分の好きな同人誌を選んで、それを正規品と信じればいい。
あたるは「ビューティフル・ドリーマー」で、ラムは「異次元空間・ダーリンはどこだっちゃ」で、
自分自身の判断で、本物のラム(あたる)を特定して、その人を信じました。
だから、あたるは「それは夢だよ」と言ってラムとキスしようとしたのだし、
ラムはあたるの腕にしがみついて甘え、「嫌がんないっちゃ・・・」と一瞬”疑念”が湧きますが、
「ま、いーか」と深追いしない。結局信じるしかないということ。どれも(正規品/同人誌)だから。

ある人は、「アニメのすべてが金のかかった同人誌」と断じている。
(TOPIC No155「アニメ『うる星やつら』は、『うる星やつら』と言えるのか」より。)
だったら、観ないことです。Keyさんとやら。「同人誌」と判っているのにわざわざ観て、
憤激しているのはいかがなものかな?

>今後『うる星やつら』について何らかの質問があった時、その答えは原作にしかないと私は思います。
(同トピックでのkeyさんの意見)

私は、答えは「自分の中」にあると思うほうです。
とりあえず、線引きでしょう。ただ、線引きするとき、どうしてそこで線を引くのかというリクツを持たないと。そのリクツこそが、その人の世界観です。

No. 149-32 (2004/12/18 08:27:25)
Name :よしーま
Title:続・私の世界観(14)うる星は体感ゲーム
私が完結篇を観るのを控えている理由の一つに、
やまざき派のメンタリティーが吹き飛んでしまうのではないかと危惧していることが挙げられます。
やまざき版うる星は、「一度忘れたことを何かのきっかけでフッと思い出す」という記憶の作用を利用して作られています。
それなのに、「忘れるもんかーーーー!!!」をあたるの肉声で聞いたら、
RML、LTFを憎悪する人間になってしまうのではないかと危惧しているのです。
実際、完結篇支持の人は、やまざき版に対してあまり良い評価をしていないようです。
RMLの「あたるが、ラムのことを忘れるという展開が許せん!!」という人。それは完結篇を見たからそういう見解に
なったのでしょ?
では訊くが、RML否定なら、赤い糸も否定するのけ?

仮に完結篇に感動しても、「いつだってマイダーリン」がテグスネ引いて待っているし。なんだか、板挟みみたいになりそうで怖い。

ひょっとしたら、脚本家の金春智子さんにとって、あたるとラムを結ぶ赤い糸が「完結篇」で、
あたるの右手にあった無数の赤い糸が「いつだってマイダーリン」のつもりなのかしら。深読みさせてもらうとすれば。
「情けないっちゃーーー!!」とあたるに電撃をかましたラムの気持ちを観客に体感させるということ。

やはりうる星は体感ゲームか。まるで押井映画「アヴァロン」。
BDの後のうる星は、体感ゲームであるという見方は、すでに書きました。

となるとTVうる星最終話のキスシーンは、ラムちゃん萌えしてあたるが羨ましい〜〜と息巻いている全国の「生メガネ」たちに、
「ときめきの聖夜」を体感させる試みだったのかもしれません。あのときもメガネはあたラムキスを目撃して白髪化。
まさか、最終話のTVの前で実際に白髪化してたんじゃないだろうね。
「生メガネ」の皆さん。

今はネット上でうる星の同人作品が閲覧できてしまう時代。これは因幡篇の体感ゲーム。
ネット上で活躍する「運命製造管理局員」たちが作る、未来のうる星世界を垣間見るということです。

No. 149-31 (2004/12/18 08:23:50)
Name :よしーま
Title:続・私の世界観(13)それでも完結篇を考慮にいれたいなら・・・・
「ときめきの聖夜」と「完結篇」は、好きというコトバについてコンフリクトします。

「ときめきの聖夜」は、完結篇よりずっと前に発表された作品です。
好きって言っちゃってるものはしょうがない。

もし、全作品の並び替えが許されるなら、そしてTVの二人と完結篇のラストの二人が同一人物としたいなら、
第19話以後のTVシリーズは、”2度目の鬼ごっこ”のずっと後の世界で、結局あたるは、ラムに「好き」と言ってしまい、
それからさらに長い年月が経った世界・・・と考えたらどうか。
「いまわの際に言ってやる」とは言ったが、「好き」という言葉で命を落とす人はいません。

「あの頃、あんなケンカしてたんだよな〜〜」「だっちゃね〜〜、ダーリンv『忘れるもんか〜〜』だって??うふっ」
「言うな」
という会話をするぐらいに成熟した2人の世界が、TVシリーズうる星やつら。
夫婦ゲンカなんか、仲直りしたらそれまでですからね。

完結篇を支持するなら、上記のように考えて、「いつだってマイダーリン」を避け、
TVうる星を鑑賞するしかないではないか・・・ダメ?

No. 149-30 (2004/12/18 08:21:09)
Name :よしーま
Title:続・私の世界観 (12)最終話のイマジネーション
「君去りし後」は、あたるが、自分はラムがいないとどうにもならないことを身にしみて自覚した話。そして、
ラムが、自分には表面的にはどんなに冷たくても、本当はダーリンはうちがいないとダメなんだっちゃ・・・と理解した話です。
「君去りし後」がTV217話として再放送されたことを、私は重視します。最終話のキスシーンの伏線に出来そうだからです。
ラムが唇を許した理由、あたるが応じた理由は、「君去りし後」の直後だから・・・と考えたらどうだろう。
(もっとも、キスなら「ときめきの聖夜」で経験済みですが。)

他の女なら、不意に抱きついたり、キスしようとしたりするのに、ラムに対してだけは、簡単に
そうしない。最終回のあのシーンでは、なぜか緊張している。あたるらしくない(笑)。
それだけ彼にとって、ラムが特別な存在になっているのに違いない。

二人が天の岩戸に閉じ込められたシーンでは、「暗闇の中で光るラム」が表現されています。
私は、これを「ラムは闇にはとらわれない」という暗示と受け止めています。
暗示というのは、先に心の中に入ったほうが効力が強いものです。
リアルタイム当時、私はサンデーで「ボーイミーツガール」を読まされる前に、TVの最終話を観てました。
「ボーイミーツガール」には「ラムが闇にとらわれる」という暗示がありますが、
私はその暗示の影響を受けなかった。だから、「ボーイミーツガール」に対して、なんかおかしいな・・・と
思うようになってしまった。

「ラムが闇にとらえられる」という暗示は本当だろうか?
「ボーイミーツガール」では、ルパの曾祖父が、ラムのことを「光の国」の女の子といいました。
「光の国」とは、自分で発光しているTVアニメ版うる星のことだと解釈できそうです。
TVというのは、漫画と違って自分で光っています。真っ暗な部屋では漫画は読めないが、TVは観ること
が出来ます。
TV最終話の光るラムは「TVうる星」の象徴として表現されていると考えます
(LTFでも、「輝くTVの中のラム」「鬼姫の聖なる光」が表現されていました。)
そこに光があれば、闇は闇ではなくなります。闇が光を消すことはできない。
真っ暗な部屋でもTVをつけたら、部屋は少し明るくなります。TVは闇にとらわれたりしません。
あたるが真っ暗な天の岩戸でラムとキスできたのは、光があったからです。
ラムが闇にとらわれたら、もうその女の子は「TVのラム」ではありません。私はそう考えています。

さらにキスシーン。これは「行為で愛を誓う姿勢」です。
このシーンは「ボーイミーツガール」のラストと異なる点です。
あれは「言葉で愛を誓う姿勢」(「一生かけて〜」「いまわの際〜」)。
私はどちらかというと言葉よりもキスの方が重みを感じる方です。だから、TV最終話の方が好み。
この二人のキスは100万トンの重みがあります。
ラムが「誰も見ていないっちゃ」と言ったのは、BDのラストであたるが拒んだことを憶えているからです。

「♪愛が見えたなら唇あずけたい」(「ロック・ザ・プラネット」より)
「俺たちの青春は言葉なんかじゃない」(RMLのメガネの台詞より)

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